スポーツ伝説

8月8日~12日の放送内容

【高校野球 土屋正勝投手】

 数多くのプロ野球選手を輩出する、千葉県屈指の古豪・銚子商業高校。1965年、夏の甲子園で準優勝した凱旋パレードを見て、自分も銚子商で野球がしたい、パレードをしたいと夢見た小学生が、のちに銚子商のエースとなる土屋投手です。その夢を叶えるべく、銚子商野球部の門を叩いた土屋投手は、2年生からエースとして甲子園に出場。73年、夏の甲子園2回戦で“怪物”と呼ばれた江川卓投手を擁する作新学院と対戦します。多くの人が作新学院の勝利を予想する中、試合は白熱の投手戦となり、0対0のまま延長戦に突入。雨が降りしきる中で迎えた延長12回ウラ、銚子商は江川投手から押し出しフォアボールを選び、サヨナラ勝ちを収めました。奪った三振は、江川投手の「9」に対して、土屋投手が「12」。高校時代の江川投手と投げ合い、三振数で上回ったのは土屋投手だけです。土屋投手は“江川に投げ勝った男”として、高校野球の歴史に名を残しました。
 江川投手に投げ勝ちながら、夏の甲子園は準々決勝で敗れた銚子商。74年夏、再び甲子園の舞台に辿り着きます。土屋投手は初戦、1失点完投。次は13奪三振を記録しての完封劇。その後、準々決勝、準決勝と継投策で完封勝ちを収めると、迎えた決勝戦を3安打完封で締める圧巻の投球内容で、銚子商業に初の全国制覇をもたらしました。2年の春夏、3年の春夏と、4季連続で甲子園に出場し通算10勝した土屋投手。秋のドラフト会議で中日から1位指名を受け、プロ入りを果たしました。

  
 
【高校野球 牛島和彦投手】

 高校野球の歴史で、バッテリーが共に話題を集めたのが、1979年に浪商高校を春夏連続で甲子園に導いた牛島投手と、“ドカベン”のニックネームで人気を集めた強打のキャッチャー・香川伸行選手です。前年秋の近畿大会を制し、春のセンバツでは優勝候補と目された浪商。エースの牛島投手はその期待に応えるように奮闘します。特に準々決勝は220球、準決勝は150球の熱投でマウンドを守り続けました。決勝では和歌山・箕島高校に敗れましたが、「浪商に牛島あり」の伝説が誕生したのです。
 迎えた79年・夏の甲子園。腰痛を抱え、万全ではないながらも、牛島投手は投打で素晴らしい活躍を見せます。1回戦は2点のリードを許して迎えた9回、ランナーを置いた浪商の攻撃もすでにツーアウト。追い込まれた中で打席に立った牛島選手でしたが、この場面で起死回生の同点ホームランを放ち、延長戦の末に勝利を収めます。2回戦は11奪三振で無四球完封勝利。続く3回戦、そして準々決勝と、香川選手の3試合連続ホームランの活躍もあって危なげなく勝ち上がります。決勝進出をかけた池田高校との準決勝には敗れましたが、5試合44イニングを投げて防御率0.61、四死球わずか3と抜群の制球力を誇り、大会ナンバーワン投手の評価にふさわしいピッチングを披露した牛島投手。その投球内容が高く評価され、中日からドラフト1位指名を受けてプロ入り。リリーフエースとして活躍しました。

  
 
【高校野球 川島堅投手】

 抜群のコントロールを武器に、1987年夏の甲子園を沸かせた東亜学園・川島投手。当時、「甲子園史上最も美しいフォーム」と呼ばれた好投手です。高校入学当初は外野手を希望していた川島投手ですが、キャッチボールを見てピンときた監督のひと言でピッチャーに抜擢されました。そのため当初はコントロールもままならず、打撃投手でバッターの背中に当てたことも。しかし2年生になると主戦投手に成長し、西東京大会を勝ち抜いて夏の甲子園に出場するも、この時は初戦で敗退しました。3年生夏の西東京大会では、7試合・61イニングをひとりで投げ抜き、61奪三振で防御率は1・18。抜群の内容で甲子園への切符を掴みました。
 初戦はヒット6本を許したものの、自責点1で川島投手の完投勝利。2回戦も自責点1は変わらず、奪った三振14個でまたも完投勝利。3回戦では、みごと完封勝利を収めます。この時点で3試合連続無四球、という抜群の制球力を発揮しました。続く準々決勝で連続無四球は途切れてしまったものの、相手打線を寄せ付けず、被安打わずか3。2試合連続完封勝利でベスト4進出を果たします。川島投手は、甲子園で5試合・45イニングを投げて44奪三振、防御率0・60で四死球はわずかに3個。この年のドラフト会議では広島カープから1位指名の高評価を受け、プロ入りを果たしました。


  
【高校野球 前田幸長投手】

 身長176㎝、体重およそ60kgと細身の体ながら、サウスポーからのカーブを武器に福岡第一高校のエースとして活躍。プロ野球でもロッテ・中日・巨人でプレーした、前田投手。1988年、春のセンバツでは、初戦の2回戦で高知商業と延長12回の熱戦の末敗れましたが、この試合12回を一人で投げ抜き、14奪三振を記録したことで、九州きっての好投手と注目されるようになりました。この年の夏、福岡大会を勝ち抜き、再び甲子園の舞台に戻ってきた前田投手。初戦の法政二高戦は、前田投手が9奪三振をマークして勝利。続く2回戦・福井商業戦は延長戦の大熱戦に。延長12回、福岡第一は2点を挙げ、これで試合が決まったかと思いきや、その裏、エラーが重なり同点に追い付かれてしまいます。延長13回、打席に立った前田投手は自らのバットで決勝打を放ち、その裏を抑えて、3回戦進出を決めました。3時間13分の熱戦で、この試合、前田投手は189球を投げました。
 激闘を制して自信を付けた福岡第一は、ここから快進撃を続けます。3回戦は鳥取の米子商業に1点差で勝利。準々決勝は島根の江の川高校に快勝。準決勝でも沖縄水産を下し、ついに決勝に進出します。広島商業との決勝戦は、8回まで両校とも無得点。9回、前田投手は広島商業の四番打者に決勝打を浴び、その裏に打席が回って来ましたが、打ち取られて最後のバッターになった前田投手。0対1で惜しくも涙を飲みました。



【高校野球 川上憲伸投手】

 中日ドラゴンズのエースとして活躍し、メジャーリーグでもプレーした川上投手。今から29年前の、1993年8月15日。徳島商業高校3年生の川上投手は、エース兼四番としてチームを引っ張り夏の甲子園に出場。初戦の2回戦で、岩手県の久慈商業高校と対戦します。しかし序盤から久慈商業に得点を重ねられ、8回表を終えた時点で徳島商業は0対7の大差をつけられていました。その裏、徳島商業の攻撃中に時刻は正午を迎えました。夏の甲子園大会では、終戦の日の正午はプレーを中断し、戦争で亡くなった人たちのために1分間、黙祷をすることになっています。川上さんは『先人への1分間の黙祷が、心を落ち着かせてくれた』といいます。
 この「黙祷のサイレン」後、ナイン全員が気持ちを切り替えた徳島商業は8回、ワンナウト・ランナーなしの状況から、6連続安打でまずは4点を返し、ツーアウトになっても、さらにタイムリーが飛び出し2点差とします。尚も一・二塁のチャンスで、左方向に上がった打球を、久慈商業のレフトがいったん捕球体勢に入りながら、雨で濡れた芝に足を滑らせて三塁打に。これで2者が生還し、徳島商業は一気に7対7の同点に追いついたのです。9回、川上投手はマウンドに向かう際、球場全体に鳴り響く拍手を聞いて鳥肌が立ったと言います。川上投手は9回を無得点に抑え、その裏サヨナラヒットで、徳島商業は奇跡の大逆転勝ちを収めました。その後徳島商業は、ベスト8まで進出。川上投手が注目されるきっかけになりました。

  

来週のスポーツ伝説もお楽しみに!!
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