スポーツ伝説

6月8日~12日の放送内容

【プロ野球 高沢秀昭選手】

 1979年のドラフトで2位指名を受け、ロッテに入団した高沢選手。将来のレギュラー候補として期待される中、打撃で伸び悩んでいました。そこで、打撃に関しては熱心すぎる指導者・山内一弘監督と、のちに3度の三冠王に輝く落合博満選手から打撃の極意を教わり、徐々に結果を出し始めます。プロ4年目の83年にレギュラーの座をつかみますが、翌84年、外野守備の際にフェンスに激突し、右ヒザを粉砕骨折。その後遺症で復帰後は本来のフォームで打つのが難しくなりましたが、高沢選手は右足の負担を軽くする打ち方を編みだし、試練を乗り越えていきました。
 そんな地道な努力がついに実るときがやって来ました。88年、高沢選手はシーズン終盤まで打率トップの座をキープ。阪急の松永浩美選手と激しい首位打者争いを演じていました。そんな中迎えた、近鉄バファローズとのダブルヘッダー。近鉄は連勝すれば優勝とあって、川崎球場は超満員になりました。ロッテの有藤道世監督は、高沢選手を四番で先発起用。その期待に応え、高沢選手は8回、近鉄1点リードの場面でホームランを放ちます。高沢選手の首位打者を確実にしたこの同点ホームランは、逆転優勝まであと一歩だった近鉄の夢を打ち砕く“非情の一発”となりました。



【プロ野球 園川一美投手】

 1985年のドラフトで、本格派のサウスポーとしてロッテオリオンズの2位指名を受け、日本体育大学からプロ入りした園川投手。プロ2年目の87年から先発ローテーションに定着すると、この年は8勝9敗。しかし翌88年は10勝15敗、89年は7勝12敗と、黒星が白星を大きく上回るシーズンが続きました。特に89年は、リーグワーストの防御率6.10を記録する一方で、奪三振率はリーグトップの8.15をマーク。つまり1試合完投すると、6点以上取られる代わりに、三振を8個以上奪った計算になります。これは、バッターに真っ向勝負を挑んでいた証しとも言えます。
 ロッテの先発陣には欠かせない存在でありながら、脇役扱いされることが多かった園川投手。でもプロ11年目の96年、思わぬ大役が舞い込んできます。江尻亮監督から、開幕投手に指名されたのです。実は開幕投手は伊良部秀輝投手の予定でしたが、故障のため登板を回避。開幕2戦目・3戦目に投げる小宮山悟投手とエリック・ヒルマン投手の登板日は変えたくないため、前年8勝9敗で負け越しの先発4番手・園川投手に急きょ代役が回ってきたのでした。園川投手は味方の大量点をバックに、4回までダイエー打線を無失点。5回にツーランを浴び、なおも満塁とされたところでお役御免。勝ち星こそ付きませんでしたが、みごと開幕戦勝利に貢献してみせました。



【プロ野球 袴田英利選手】

 袴田選手は1973年のドラフト会議でロッテから3位で指名されましたが、それを断り法政大学へ入学。同期には剛速球で甲子園を沸かせ、のちに巨人のエースとなる“怪物”江川卓投手がいました。2年の春から正捕手になった袴田選手は江川投手とバッテリーを組み、東京六大学リーグで4連覇を達成。法政大学の黄金時代を築き上げました。そして77年のドラフトで、今度は1位でロッテに指名され入団。プロでもまた、伝説のエースとバッテリーを組むことになります。84年から正捕手の座についた袴田選手がバッテリーを組んだのが、6歳年上の大エース・村田兆治投手。マサカリ投法で投げ下ろす豪速球と高速フォークボールを武器に、通算215勝を挙げたレジェンドです。
 村田投手の代名詞、キャッチャーの視界からも消える、と言われた落差の大きいフォークボールを捕球するには、素手でつかむ感覚が必要だったため、袴田選手はミットの綿をわざと半分にして血のにじむような特訓を続けました。何度も指を脱臼しながら、体を張ってフォークを受け止めた袴田選手。そのうち村田投手はノーサインで投げるようになり、袴田選手はどんなボールが来てもあうんの呼吸で受け止めてみせました。


 
【プロ野球 西村徳文選手】
 
 80年代のパ・リーグで最も多い、4度の盗塁王に輝いたロッテオリオンズの西村選手。少年時代は、巨人のV9戦士で6度の盗塁王に輝いた柴田勲選手に憧れ、俊足を磨きました。プロ入りの決め手となったのが、社会人野球でのワンプレー。一塁ランナーの西村選手が、ライト線へのヒットで一気にホームへ生還。その俊足がスカウトの目に留まり、1981年のドラフトでは5位ながらも、ロッテ・ヤクルト・南海の3球団に指名されました。
 ロッテ1年目のオフ、出場機会を増やすため、少年時代に憧れた柴田選手と同じ、左右両打ちのスイッチヒッターになろうと決意。猛練習の末、3年目の84年にセカンドのレギュラーをつかみ取りました。5年目の86年には、36盗塁を決めて初の盗塁王に。この年から、4年連続盗塁王という偉業を成し遂げたのです。バッティングの技術も磨き、90年には打率3割3分8厘で初の首位打者に輝いています。
  


 
【プロ野球 水上善雄選手】
 
 80年代、ロッテ不動のショートだった水上選手。桐蔭学園高校3年生の夏、1975年の神奈川県大会準々決勝では、現巨人軍監督・原辰徳選手を擁する強豪・東海大相模高校と対戦します。桐蔭学園は原選手にサヨナラヒットを打たれ、甲子園出場の夢は叶いませんでしたが、水上選手はこの試合で4安打を放ち、強豪相手に意地を見せました。
 この姿勢がロッテスカウトに評価され、ドラフト3位で入団。1年目から一軍出場を果たすと、4年目の79年からショートのレギュラーに定着し、この年から3年連続でリーグ最多犠打を記録する一方、通算105本のホームランも放っています。引退後は、現役・コーチ経験を生かす場として高校野球の道を選択。昨年から、地元・神奈川の橘学苑高校の野球部監督に就任しました。全国屈指の激戦区で負けじ魂を発揮し、高校球界を盛り上げてくれそうです。


        
来週のスポーツ伝説は……

6/15(月) ハンマー投げ  室伏重信選手
6/16(火) 柔道    山下泰裕選手
6/17(水) テニス   神和住純選手 
6/18(木) マラソン  君原健二選手
6/19(金) フィギュアスケート 上野純子選手 
                       
お楽しみに!!
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