今週は、プロ野球の剛速球投手をご紹介しました。
【山口高志投手】
山口投手は、身長169㎝の小柄なピッチャー。まだスピードガンがない時代でしたが、当時の映像を元に解析したところ、154キロは出ていたといいます。特に速かったのが高めのストレートで、対戦したバッターはみな「ボール球と分かっていてもついバットが出てしまう」と口を揃えました。
ルーキーイヤーは12勝を挙げ、阪急の前期優勝と球団初の日本一に貢献。1975年のパ・リーグ新人王に輝きました。圧巻だったのは、広島カープとの日本シリーズ。先発・抑え両方で6試合中5試合に登板し、1勝2セーブでシリーズMVPに選ばれました。しかし山口投手のピッチングは、大きくない体を目いっぱいに使う負荷の大きいスタイル。本人も「太く、短く」でいいと思っていたという通り、1年目から3年連続で2ケタ勝利をあげ、4年目の78年は抑えに回って最優秀救援投手のタイトルを獲得して13勝、リーグ4連覇にも貢献しましたが、以後は故障に泣かされました。5年目からの4シーズンでわずか3勝しか挙げられず、8年目の82年に引退。2003年からは阪神で2軍投手コーチを務め、当時伸び悩んでいた藤川球児投手を一本立ちさせています。
【松岡弘投手】
巨人の9連覇を支えた長嶋茂雄選手や柴田勲選手が「対戦した中で一番ボールが速かった」と口を揃えるピッチャーは、ヤクルトスワローズの松岡投手です。威力あるまっすぐを武器に、78年、ヤクルトのエースとしてリーグ優勝・日本一にも貢献しました。
現役時代、松岡投手が燃えたのはやはり巨人との戦い。特に王選手との対戦に闘志を燃やしました。ある時、巨人を1安打で完封した松岡投手。そのたった1本のヒットを打って、ノーヒットノーランの夢を打ち砕いたのが王選手でした。しかし79年9月2日の巨人戦では、同じく剛速球で知られた江川卓投手と投げ合い、1対0と巨人打線を完封。その1点は松岡投手自身が打ったソロホームランでした。先発投手が自らホームランを打って1対0で完封勝ちしたのはプロ野球史上7人目の快挙で、しかもこの時の松岡投手は、毎回奪三振のおまけ付きでした。
【郭泰源投手】
1984年、日本が金メダルを獲得したロサンゼルス・オリンピックの野球競技にチャイニーズ・タイペイ代表として参加、銅メダル獲得に貢献し、一躍注目を浴びた台湾出身の郭投手。最速150キロ台後半のストレートを投げることから、“オリエンタル・エクスプレス”のニックネームと共に鳴り物入りで来日しました。
プロ1年目の85年4月8日の近鉄戦でデビューを飾ると、いきなり1失点で完投勝利。4月25日のロッテ戦では初完封勝利を挙げ、6月4日の日本ハム戦ではノーヒットノーランを達成しました。この年はリーグ最多の3完封を含む9勝で、西武のリーグ優勝に貢献しています。郭投手は以降も97年まで13シーズン西武に在籍し、その間10度のリーグ優勝と6度の日本一を経験。通算117勝を挙げましたが、これは現在も外国人投手の通算勝利数歴代トップの記録です。
【小松辰雄投手】
小松投手は1976年夏の甲子園で、石川県青陵高校の2年生エースとして活躍。準決勝まで進出し、その高校生離れしたスピードでファンを沸かせました。
翌77年にドラフト2位で中日ドラゴンズに入団すると、2年目の79年からリリーフ投手として一軍に定着。ちょうどこの頃から導入されたのが、球速を測るスピードガンでした。高校時代から剛速球で鳴らした小松投手は、当時としてはトップクラスの150キロ台を連発し、“スピードガンの申し子”と呼ばれました。
【村田兆治投手】
1967年のドラフト1位で千葉ロッテマリーンズの前身・東京オリオンズに入団した村田投手は、高校時代から剛速球投手として知られていました。2年目から頭角を現し、一軍に定着しますが、更なる飛躍を目指してフォームの大改造に乗り出します。その結果完成したのが、「マサカリ投法」。この新フォームで74年に12勝を挙げ、ロッテの日本一に貢献しました。
しかしプロ15年目の82年、村田投手はついに右ひじを痛めてしまいます。渡米してトミー・ジョン手術を受けますが、リハビリには2年掛かりました。85年4月14日、川崎球場で行われた西武戦に登板し、155球、2失点で完投。実に1073日ぶりの白星を手にしました。この試合は日曜日でしたが、以後中6日で登板することになった村田投手は、それから5月末まで日曜日7連勝を飾り、“サンデー兆治”のニックネームで呼ばれるようになります。この年は17勝5敗の好成績で、カムバック賞を受賞しました。
来週のスポーツ伝説は……
7月4日(月) プロ野球 樋笠一夫選手
7月5日(火) プロ野球 飯島秀雄投手
7月6日(水) 大 相 撲 佐藤貴信関
7月7日(木) 大 相 撲 遠藤聖大関
7月8日(金) 大 相 撲 御嶽海久司関
お楽しみに!!