【プロ野球 松岡弘投手】
「ヤクルト史上最高の右腕」と呼ばれる、松岡投手。1968年、東京ヤクルトスワローズの前身であるサンケイアトムズに入団。速球を武器に開幕投手を9度務めるなど、ヤクルト一筋でエースとして活躍し、通算191勝を挙げました。
松岡投手は18年間現役を続け、名球会入りの通算200勝まであと9勝と迫りながらも、85年限りで現役を引退。その背番号17は、のちに右腕エースとなる川崎憲次郎投手へと受け継がれました。
【プロ野球 伊東昭光投手】
ヤクルトで、先発・リリーフとして活躍した右腕、伊東投手。帝京高校時代には、2年生ながらエースとして春の選抜高校野球で準優勝。社会人野球の名門・本田技研を経て、1985年にドラフト1位でヤクルトに入団。ルーキーイヤーから、先発・リリーフでフル回転の活躍を見せ、2年目の87年には、先発の柱として14勝を挙げました。
翌88年、チームの事情から、ウイークポイントだったクローザー転向を言い渡された伊東選手。東京ドームの公式戦こけら落としとなった巨人×ヤクルトの開幕戦でプロ初セーブを挙げると、この年55試合に登板。18勝9敗17セーブの成績で、抑え専任ながら最多勝に輝きました。規定投球回数に到達していないにもかかわらず、最多勝のタイトルを獲ったピッチャーはプロ野球史上初です。
【プロ野球 荒木大輔投手】
これまで、数々のスター選手を輩出してきた東京ヤクルトスワローズ。多くの選手はプロの世界で結果を残してスターへの階段を登っていきますが、かつて入団する前から全国区の人気を誇った選手がいました。それが1982年のドラフト1位、荒木投手です。早稲田実業時代に、1年夏から3年夏まで、5季連続で甲子園に出場。その人気は“大ちゃんフィーバー”と呼ばれる社会現象になりました。プロ入り後も人気はすさまじく、本拠地・神宮球場周辺での移動の際には、混乱を避けるためにクラブハウスと球場を結ぶ地下通路を利用。この通路は“荒木トンネル”と呼ばれるようになりました。
当初はなかなか勝てなかった荒木投手でしたが、3年目の85年に6勝を挙げると、87年には自身初の10勝をマーク。しかし更なる活躍が期待された翌88年、シーズン途中に右ヒジを故障。すぐにアメリカに渡って手術を受けましたが、リハビリを急いだため症状が悪化し、翌年に再手術。その後、今度は腰の椎間板ヘルニアに悩まされました。しかし故障から4年たった92年9月24日、実に1541日ぶりに一軍のマウンドに立った荒木投手は、広島の4番・江藤智選手をフォークで空振り三振に仕留めると、直後の攻撃で逆転。貴重な勝利を挙げました。この“荒木投手復活の夜”からヤクルトは勢いづき、首位・阪神との直接対決では5連勝を飾り、劇的な逆転優勝を果たしたのです。
【プロ野球 池山隆寛選手】
80年代中盤から90年代にかけて“ぶんぶん丸”の愛称で親しまれたのが、ヤクルト一筋19年の池山選手です。ニックネームの由来は、「フルスイング」を心掛け、とにかくバットをブンブンと振り回したこと。入団4年目の1987年から6年続けて、シーズン100三振という記録も残しています。
もちろん、ただ三振が多いだけのバッターが人気者になるはずもありません。入団5年目の88年、守備の負担が大きいショートのポジションでありながら、ホームランを31本も記録。さらに、90年には、自己最高の打率3割3厘をマークし、ショートの選手では史上初めて3割・30本を達成。リーグを代表する選手へとのぼりつめたのです。
【プロ野球 石井一久投手】
ヤクルトの黄金時代といえば、野村克也監督のもとで4度のリーグ優勝を果たした1990年代。この年代を代表する左のエースが、石井投手です。91年のドラフト会議で、「10年にひとりの逸材」という評価でヤクルトから1位指名を受けて入団。甲子園に出場した経験のない高卒ルーキーに背番号16という数字を与えたことにも、球団の期待の高さが窺えました。
「急いで投げさせてはもったいない。大きく育てる」という野村監督の方針のもと、プロ1年目の92年はほぼ二軍で過ごした石井投手。ところがレギュラーシーズン終了後の日本シリーズの先発投手に、なんと石井投手が起用されたのです。高卒ルーキーが、日本シリーズで先発の大役を務めるのは26年ぶりのこと。しかも公式戦未勝利とあって「前代未聞の大抜擢」と言われました。結果的に負け投手になりましたが、石井投手はこれで一躍、注目の存在となったのです。
来週のスポーツ伝説は……
4月29日(月) プロ野球 平成最強のチーム
4月30日(火) プロ野球 平成最強のバッター・ピッチャー
5月 1日(水) スキージャンプ 小林陵侑選手
5月 2日(木) スピードスケート 高木美保選手
5月 3日(金) スピードスケート 新浜立也選手
お楽しみに!!