スポーツ伝説

8月17日~21日の放送内容

【野球 森友哉選手】

 関西の名門・大阪桐蔭高校出身の森選手。初めて甲子園の舞台に立ったのは2年生の時、2012年春のセンバツでした。初戦で大谷翔平投手を擁する岩手の強豪・花巻東高校と対戦。森選手は大谷投手から技ありのヒットを2本放ち、強敵を撃破しました。準決勝の群馬・健大高崎高校戦では、同点の8回に決勝ホームランを放ち、これで勢いに乗った大阪桐蔭は全国制覇を達成。夏の大会でも2本のホームランを放ち、守っては正捕手として活躍。2年生にして、甲子園春夏連覇に貢献したのです。
 13年、3年生になった森選手は、夏の甲子園にキャプテンとして出場。初戦の日本文理戦で、2打席連続ホームランを放ち快勝しました。これで森選手は、甲子園での通算ホームラン数が5本となり、憧れの“ゴジラ”松井秀喜さんの4本を抜いたのです。

   

【野球 髙山俊選手】

 中学時代は、地元・千葉にある無名のシニアチームでプレーしていた髙山選手。全国大会とは無縁でしたが、その才能を惜しんだシニアチームの監督が、東京の名門・日大三高の小倉全由監督に声を掛けました。小倉監督は髙山選手のバッティングを一目見て、その恵まれた体つきとパンチ力に惚れ込み、入部を許可。1年生の秋に、早くも外野のレギュラーをつかんだ髙山選手は、2010年、2年生の時に春のセンバツに出場。初めて甲子園の舞台に立ちました。チームは決勝戦に進みましたが、髙山選手は4試合でわずか2安打と結果を出せず、決勝ではスタメン落ち。チームも敗れ全国制覇を逃しました。
 その不振が尾を引いたのか、髙山選手は夏のレギュラーメンバーから外され、西東京大会はベスト4で敗退。苦悩する日々が続きました。しかし控えになっても腐らず、黙々と練習を重ねて本来の姿を取り戻していった髙山選手。2年生秋からの新チームでは中心選手となり、再びレギュラーに復帰。早速、秋の東京都大会でホームラン4本を放つ活躍を見せます。さらに明治神宮大会優勝に貢献し、翌11年春のセンバツの切符を手にします。今度は4試合で17打数9安打と打ちまくり、チームをベスト4に導いて全国にその名を轟かせたのです。



【野球 山田哲人選手】

 山田選手の出身校は、大阪の強豪として知られる履正社高校。1年生の秋にはセカンドを守り、実質的にレギュラーの座をつかんだ山田選手ですが、監督やコーチから見ると、歯がゆさを感じる選手でした。そんな山田選手にとって転機となったのは、2009年、2年生の秋。秋の大阪府大会、PL学園との準々決勝で、自分の守備のミスから失点し、打っても、終盤のチャンスに凡退。敗れた履正社高校は、春のセンバツ出場を逃してしまったのです。
 この時、野球に取り組む姿勢を深く反省したという山田選手。さらに、その年秋に行われたプロ野球ドラフト会議も、山田選手の意識を変えるきっかけになりました。以後、プロを目指して目の色を変えて練習に取り組むようになった山田選手。その努力が実り、10年、3年生になると、打撃・守備・走塁のすべてにおいてそれまでとは見違えるようなプレーを見せるようになります。夏の大阪府大会では、初戦の満塁ホームランを皮切りに29打数12安打13打点と打ちまくり、履正社を13年ぶりに夏の甲子園へと導きました。さらに甲子園でも初戦の2回戦でホームスチールを決め、3回戦では2点リードされた場面で同点ツーランを放った山田選手。チームは敗れ、わずか2試合で甲子園を去りましたが、2ヵ月後のドラフトでヤクルトから1位指名を受け、みごと夢を叶えました。



【野球 杉谷拳士選手】
 
 高校野球ファンの間で「甲子園史上、最も壮絶な試合」と呼ばれているのが、2006年・夏の甲子園の準々決勝、帝京高校 対 智弁和歌山高校の一戦です。この試合でキーマンとなったのが、1年生ながらレギュラーで出場した帝京の杉谷選手でした。試合は8回が終わった時点で4対8、帝京は智弁和歌山に4点のリードを許していました。9回表、帝京は連打を浴びせ、7対8と1点差に。なおもツーアウト満塁のチャンスで杉谷選手に打席が回ると、みごと逆転の2点タイムリーヒットを放ったのです。その後さらにスリーランホームランが飛び出し、帝京は12対8と逆に4点のリードを奪いました。
 しかしこの回、帝京は捨て身の攻撃で、控え投手を使い切ったあと、ピッチャーに代打を出したため、9回ウラのマウンドに立つピッチャーがいませんでした。そこで前田三夫監督がマウンドに送ったのは、ショートを守っていた杉谷選手。中学時代に投手経験はありましたが、高校の公式戦ではなんとこれが初登板。案の定、初球からいきなりデッドボールとなり、ピッチャー交代。たった一球で、杉谷選手はマウンドを降りることになったのです。結局、帝京は12対13でサヨナラ負けを喫し、杉谷選手は1球で負け投手になりました。

  

【野球 浅村栄斗選手】
 
 中学時代の浅村選手は、決して名の知れた存在ではありませんでした。それでも、厳しいセレクションがある大阪桐蔭野球部に入ることができたのは、OBの兄の存在があったからです。浅村選手の兄は努力家で知られ、チームにも貢献。大学野球で飛躍を遂げた選手でした。浅村選手の父親に頼まれ、大阪桐蔭高校・西谷浩一監督が中学時代の浅村選手のプレーを見に行ったのは、その弟だったからでした。教え子を何人もプロに送り出した西谷監督から見ると、浅村選手はそれほど飛び抜けた選手ではありませんでしたが、あの兄の弟ならと入部を認めました。そこで浅村選手は兄に負けない努力を続け、1年生の秋には早くもベンチ入りを果たします。
 しかしベンチに入れたことが慢心になり、プレーに雑さが目立つようになった浅村選手は、2007年、春のセンバツメンバーから外される苦い経験をしました。また、2年生の秋、プロ志望を口にした浅村選手に対し監督が一喝。以後、チームの誰よりもバットを振り抜いた浅村選手は08年、高校最後の夏でついに初めての甲子園出場を果たすのです。08年夏の甲子園、浅村選手は1番・ショートで初戦から5安打を放つ大活躍。続く2回戦の金沢高校戦では2回にホームランを打つと、1点リードされた8回にもう1本、起死回生の同点ホームランを放ち、サヨナラ勝ちにつなげました。その後も浅村選手のバットは止まらず、6試合でなんと29打数16安打。打率5割5分2厘をマークし、大阪桐蔭の全国制覇に大きく貢献しました。
 

        
来週のスポーツ伝説は……

8/24(月) パラ卓球  岩渕幸洋選手
8/25(火) パラアーチェリー 上山友裕選手
8/26(水) パラ陸上  髙田千明選手 
8/27(木) ゴールボール  浦田理恵選手
8/28(金) 車いす陸上 佐藤友祈選手 
                       
お楽しみに!!
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