今年も甲子園を目指し、各地で夏の地方大会が行われています。高校野球の歴史に彩りを添えたのが、プレーとルックスの両面で人気を呼んだ球児たちの存在。今週は、そんな“アイドル球児”にまつわる伝説をご紹介しました。
【太田幸司投手】
甲子園大会で最初に社会現象とも言える人気を集め“元祖・甲子園のアイドル”と呼ばれたのが、青森・三沢高校のエースとして活躍した太田投手です。1968年の夏、69年の春・夏と、3季連続で甲子園に出場した太田投手の人気が爆発したのは、69年夏の甲子園。三沢高校はこの大会中、すべての試合でドラマチックな戦いを演じました。そして勝ち進んでいくたびに太田投手の人気は高まっていき、端正な顔立ちも手伝って、普段は野球に興味のない女性ファンを開拓。“コーちゃん”の愛称で、一躍、時の人となったのです。
69年の秋、ドラフト会議で近鉄バファローズに1位指名された後も「コーちゃんフィーバー」は続きました。翌春の宮崎キャンプでは太田投手を一目見ようと、平日でも1万人以上のファンが詰めかけたほど。また、ペナントレース開幕前に、テレビCMへの出演も決定。その契約金は1千万円とも言われ、王貞治・長嶋茂雄のONコンビよりも高額なものでした。プロでは、はじめこそ伸び悩みましたが、5年目の74年に初めて10勝を挙げると、翌75年も12勝、79年には球団初のリーグ優勝にも貢献しています。
【定岡正二投手】
ひと夏で国民的アイドルになった代表例といえば、1974年夏の甲子園で活躍した定岡投手です。鹿児島実業高校のエースとして、決して下馬評の高くなかったチームを甲子園に導いた定岡投手。甲子園初戦となる2回戦の佼成学園戦、続く3回戦の高岡商業戦と2試合連続で完封勝利を収め、一躍、注目の存在になりました。実力に加え、184センチのスラリとした長身と、甘いマスクもあいまって、女性ファンからの声援は日を追うごとに増加。そんな定岡投手の人気を決定的にしたのが、準々決勝・東海大相模高校との一戦でした。全国優勝2回を誇る名将・原貢監督が指揮を執り、1年生ながらクリーンアップを務めていた息子・原辰徳選手を中心とした強力打線は優勝候補筆頭といわれていましたが、定岡投手は延長15回、213球を投げ抜き、18奪三振で完投勝利。3時間38分の激戦を制した定岡投手の名は一気に全国区になり、“定岡フィーバー”はどんどん過熱。やがて、自宅前に観光バスが止まるまでになりました。
74年秋のドラフト会議で巨人から1位指名されると、定岡投手はこの年、現役を引退したばかりの長嶋茂雄新監督が率いる新生ジャイアンツの目玉に。プロ初勝利が6年目の80年と苦労しましたが、81年には11勝を挙げ、リーグ優勝とチーム8年ぶりの日本一に貢献しました。しかし85年には、29歳の若さで現役を引退しています。
【荒木大輔投手】
1980年夏の甲子園で、16歳の少年が一大旋風を巻き起こしました。早稲田実業の1年生エース、荒木投手です。1回戦から準決勝までの5試合で4完封。44回1/3連続無失点という圧巻のピッチングで、決勝戦進出の原動力となりました。しかし決勝では3回5失点で途中降板。チームも4対6で敗れ、準優勝に終わりましたが、1年生らしい初々しさの反面、緩急を織り交ぜた大人のピッチングと爽やかな笑顔は瞬く間に全国の女性ファンの心をとらえ、“大ちゃんフィーバー”と呼ばれる社会現象を巻き起こしました。
82年秋、ドラフト会議でヤクルトと巨人が荒木投手を1位指名。ヤクルトへの入団が決まります。プロの世界でも“大ちゃんフィーバー”は衰えず、あまりの人気ぶりから荒木投手を追いかけるファンとの混乱を避けるため、神宮球場の地下にクラブハウスと球場を結ぶ選手専用通路、通称「荒木トンネル」が作られたほどです。そんな荒木投手にあやかろうと、当時「大輔」と命名された男の子が大勢いました。その一人が、元メジャーリーガーで、現在は福岡ソフトバンクホークスの松坂大輔投手。98年の甲子園で春夏連覇を達成し、“平成の怪物”と呼ばれる存在になりました。ヒーロー伝説はこうして、次の世代へと受け継がれていくのです。
【ダルビッシュ有投手】
東北高校のエースで、現在はテキサス・レンジャーズで活躍するダルビッシュ投手もアイドル球児の1人です。身長は194センチ。お父さんがイラン人で、モデルのようにすらっと長い手足に、目鼻立ちのクッキリした顔。そして中学時代、全国50の高校から誘いが来るほどの圧倒的な実力。ダルビッシュ投手を一目見ようと、球場や練習場にはいつも女性ファンの姿がありました。そんな人気が思わぬアクシデントを引き起こします。2003年、2年生で春の選抜高校野球に出場したダルビッシュ投手は、女性ファンに囲まれ、握手を求めて腕を引っ張られた際に右脇腹を痛めてしまったのです。診断の結果は、全治2週間。初戦はなんとか痛みに耐え、4安打1失点の完投勝利を収めたダルビッシュ投手。ところが次の試合はケガの影響もあって、まさかの9失点。9対10で敗れ、実力を出し切れないまま不本意な形で甲子園を去ることになりました。
雪辱の舞台は、3年生春の選抜。1回戦、熊本工業との試合で、ダルビッシュ投手は大会史上12人目となるノーヒットノーランを達成。圧巻の投球で、その実力が本物であることを全国の野球ファンに見せつけました。春夏共に悲願の初優勝には届きませんでしたが、将来の球界をしょって立つスターの片鱗を随所に感じさせる投球で、女性ファンだけでなく、目の肥えた野球ファンをも虜にしたのです。
【斎藤佑樹投手】
ピンチになると、ポケットから取り出す青いハンカチ。上品にハンカチで汗をぬぐう仕草は、いつしか彼のトレードマークになりました。人呼んで“ハンカチ王子”。もちろん、早稲田実業のエースで、現在、北海道日本ハムファイターズの斎藤投手のことです。最初は精神面の弱さを克服するために使い始めたという青いハンカチ。汗を拭いながらひと呼吸おき、同時にバッターや相手チームの様子を観察する時間を作っていたのです。ハンカチで気持ちを落ち着かせるニュースターの登場に、ファンはどんどん夢中になっていきました。
2006年夏の甲子園。斎藤投手は1回戦から準決勝までの5試合をほぼ1人で投げ抜き、早稲田実業を決勝戦へと導きます。決勝の相手は、夏の甲子園3連覇を目指していた北の王者・駒大苫小牧。世代最強エースと呼ばれていた田中将大投手を中心に、豊富な戦力を揃えていました。ところが、試合は1対1の投手戦で互いに譲らず延長戦に。延長15回まで続けても決着はつかず、69年の松山商業対三沢高校以来、37年ぶりとなる決勝戦での引き分け再試合へと突入。連戦による田中投手の疲れを考え、継投策で臨んだ駒大苫小牧に対して、早稲田実業のマウンドに立ったのは、変わらず斎藤投手でした。準々決勝から4連投にもかかわらず、斎藤投手はこの再試合でも完投。最後は田中投手から空振り三振を奪い、早稲田実業は悲願の初優勝を達成したのです。この大会、7試合に先発し、6試合で完投。948球を投げ抜いた斎藤投手。プロ入り後は苦しい戦いが続いていますが、あの時の輝きをもう一度見せてくれることをファンは期待しています。