【サッカー ヨハン・クライフ氏】
「現代サッカーに、最も影響を与えた人物の一人」といわれるクライフ氏が、今年3月に68歳でその人生に幕を下ろしました。1970年代にオランダ代表として活躍。選手としても監督としても超一流の実績を残しました。クライフ選手は17歳の時、オランダの名門アヤックスでデビュー。ミケルス監督が提唱した全員攻撃・全員守備の戦術“トータル・フットボール”を、実際にピッチ上で体現してみせました。この戦術を武器に、アヤックスは3季連続でヨーロッパ王者に輝き、クライフ選手も3度にわたりヨーロッパ最優秀選手賞バロンドールに選出されたのです。オランダ代表においても、74年のワールドカップ・西ドイツ大会で、優勝候補のブラジルやアルゼンチンを次々に撃破。最終的には準優勝に終わりましたが、世界のサッカー界に衝撃を与えました。
「美しく勝利せよ」をモットーに選手生活をまっとうしたクライフ選手でしたが、そのサッカー哲学は指導者になってからも変わりませんでした。現役引退後、低迷していた古巣アヤックスの監督に就任すると、攻撃的なスタイルの復活を掲げ、ファンバステン選手やライカールト選手などの若手を積極起用。彼らはのちに世界的な選手となり、アヤックスもクライフ選手が活躍したとき以来となる国際タイトルを獲得します。その後、スペインの名門・FCバルセロナの監督に就任。オランダ代表と同じ3・4・3のシステムを導入し、攻撃的なサッカーを展開。国内リーグで4連覇を達成し、92年には、現在のチャンピオンズリーグに当たる、欧州チャンピオンズカップで初優勝を成し遂げます。現代においても、美しいパス回しで攻撃的なサッカーを披露するバルセロナ。そのスタイルを確立したのは、“名選手で、名監督”クライフ氏の功績だったのです。
【ラグビー 平尾誠二氏】
今年10月、“ミスター・ラグビー”の愛称で親しまれた平尾さんが、53歳の若さで亡くなりました。中学からラグビーを始めた平尾選手は、高校2年生で全国大会に初出場。3年生の時に初の全国制覇を達成します。その快進撃は、テレビドラマ『スクール☆ウォーズ』のモデルとなりました。同志社大学時代は、史上初の大学選手権3連覇の偉業を達成。社会人の神戸製鋼ラグビー部では、1988年度から日本選手権7連覇し、黄金期を築き上げます。
日本代表でも長らく中心選手として活躍。当時史上最年少の19歳4カ月で日本代表に初めて選出され、ワールドカップには87年の第1回大会から3大会連続出場。第2回大会では、記念すべき日本のワールドカップ初勝利の原動力となりました。その戦術眼やラグビー理論、リーダーシップは指導者としても発揮され、34歳の若さで日本代表の監督に就任。「常に2、3歩先を行くラグビー観を持つ男」といわれ、代表監督時代には、史上初めて外国籍の選手をキャプテンに指名するなど、新しい発想をどんどん持ち込んだことでも知られています。
【プロ野球 山本功児氏】
今年4月、巨人・ロッテで名脇役として活躍し、ロッテでは監督にも就任した山本さんが64歳で亡くなりました。山本選手は強打の一塁手として期待され、1975年のドラフトで巨人に入団。しかしプロ入り後は、二人の偉大な野球人の存在が山本選手の存在を霞ませました。一人は、巨人不動の一塁手にして世界のホームラン王・王貞治選手。もう一人は、“ミスター赤ヘル”広島カープの山本浩二選手です。しかしそんな中でも、試合に出さえすれば、確かな存在感を示した山本選手。代打出場で記録した打率2割7分4厘は、巨人軍歴代1位です。また王選手の代わりに4番で出場した際には、打率3割7分9厘。巨人の4番打者を20打数以上務めた選手の中で、こちらも歴代1位の数字です。王選手が現役引退した後も、一塁のポジションには2歳下の中畑清選手が台頭し、なかなか活躍の場は与えられませんでした。しかし84年にロッテへトレードされた山本選手は、プロ9年目にして初めて期待打席に到達。一塁の守備でも、84年・85年と二年連続で今のゴールデングラブ賞にあたるダイヤモンドグラブ賞を受賞しました。
球界きっての名脇役は、36歳で引退すると、翌89年からすぐにロッテの一軍打撃コーチに就任。その後も、二軍打撃コーチや二軍監督などを歴任し、のちに首位打者のタイトルを獲得する福浦和也選手などを育てました。99年にはロッテの一軍監督に就任し、2003年まで指揮。翌04年には古巣・巨人の2軍ヘッドコーチに就任。05年は一軍ヘッドコーチを務めます。結局、76年にプロ入りしてから30年間、ユニフォームを着続けた山本さん。まさに現場に求められ続けた野球人でした。
【プロ野球 豊田泰光氏】
怪童・中西太選手と共に、西鉄ライオンズの黄金期を築き、1956年には首位打者に輝いたスラッガー・豊田さんが今年8月、81歳で惜しまれつつこの世を去りました。53年に西鉄に入団すると、高卒1年目でいきなりショートのレギュラーの座を獲得。シーズン45失策を記録しますが、業を煮やした三原監督が「ヘタクソ!」と怒鳴ると「そのヘタクソを使っているのは誰ですか!」と言い返したといいます。1年目から、当時の高卒新人記録となる27本のホームランを放ち、新人王を獲得。ルーキーにもかかわらず、先輩に遠慮なくものを言い、我が物顔で振る舞いました。その態度は当然、チーム内で非難の的になりましたが、豊田選手は一切ひるむことなく、逆にその負けん気の強さでチームの雰囲気を変えていきました。その結果、奮起した西鉄は56年からパ・リーグ3連覇。日本シリーズでもセ・リーグの覇者・巨人を下し、3年連続で日本一に輝きました。豊田選手は、56年のシリーズMVPに選ばれています。
引退後、野球解説者となっても歯に衣着せぬ姿勢は変わらず、亡くなるまで、球界のために辛口の提言を続けた豊田さん。2006年には野球殿堂入りを果たしています。
【プロ野球 山本一義氏】
1960年代から70年代にかけて、広島カープの主軸として活躍。引退後は指導者として、広島の打撃コーチや、ロッテオリオンズの監督も務めた山本さんが、今年9月に78歳で亡くなりました。しかし、訃報が公になったのは10月に入ってから。カープは9月10日に優勝を決めたばかりで「祝賀ムードに水を差さないように」という故人の意向があったのです。現役時代は、カープ一筋15年。“広島愛”を貫いた山本さんは、60年代には四番打者としてチームを引っ張り、75年には選手兼任コーチとしてカープの初優勝に貢献。栄冠を花道に、この年限りで引退しました。
引退後は広島のコーチとして、金本選手・緒方選手ら現在監督を務める選手たちを一流に育て上げ、82年から2年間は、ロッテの監督も務めた山本さん。そのプロ精神は、愛弟子たちを通じて今も後進へと継承されています。
来週のスポーツ伝説は……
12月26日(月) プロ野球 工藤公康投手
12月27日(火) サッカー 市川大祐選手
12月28日(水) サッカー 森崎浩司選手
12月29日(木) サッカー 天皇杯 鹿島・G大阪
12月30日(金) サッカー 天皇杯 名古屋・広島
お楽しみに!!