【パラ卓球 岩渕幸洋選手】
生まれつき、両足首に障害を持ち、左足には装具を付けプレーをする岩渕選手。中学1年生の時に健常者と一緒に卓球を始め、中学3年生でパラ卓球に出会いました。最初は体の機能を最大限に生かし、健常者とはまったく違うボールを繰り出すパラ卓球の選手たちに全く勝てなかった岩渕選手。悔しさと同時に、「ここなら、自分のスタイルで戦える」と感じ、本格的にパラ卓球を始めました。
その後は名門・早稲田大学卓球部に入部して腕を磨き、国際大会でも活躍。2016年、リオ・パラリンピック代表に選ばれます。メダルを期待されていましたが、初戦を3セット連続で落とし、まさかのストレート負け。その悔しさを胸に臨む東京パラリンピックでの目標は、「金メダル以上」。その心は、「金メダルを獲ることだけが、ゴールではない。パラ卓球という競技がもっと注目され、パラスポーツの魅力をもっと広く知ってもらうことが、本当のゴール」という意味だそうです。
【パラアーチェリー 上山友裕選手】
上山選手は大学時代、同級生の誘いでアーチェリーを始めました。するとめきめきと腕を上げ、3年生でインカレ出場を果たします。卒業後も、会社で働きながら趣味でアーチェリーを続けていた上山選手でしたが、入社1年目の2010年、少しずつ足の感覚がまひしていく原因不明の病気に襲われ、やがて歩くことも困難になって車いす生活に。そこからはパラアーチェリーに取り組む決意を固めると、13年、全国障害者アーチェリー選手権で優勝。日本一になった上山選手の次の目標は、自然と世界の大舞台・パラリンピックへと向いていきました。
念願叶い、16年のリオ・パラリンピック代表に選ばれた上山選手は、予選を全体4位で通過。メダルを狙える位置に付けましたが、準々決勝で予選5位のイランの選手に敗れてしまい、7位入賞に終わりました。悔しかったのは、自分を破った選手が金メダルに輝いたこと。さらにショックだったのは、帰国したとき、空港で出迎えてくれた報道陣が“ゼロ”だったこと。「メダリストと入賞者では、こんなにも差があるのか」と実感したという上山選手。その悔しさも、東京でメダルを狙う原動力になっています。
【パラ陸上 髙田千明選手】
生まれつき視覚に障害があり、20歳の頃に完全に視力を失った髙田選手。中学校から盲学校に通い、在学中に視覚障害者向けの様々なスポーツを経験しました。その中でも好きだったのが、走ること。伴走者がいれば目が見えなくても全力で走れると知り、障害者の陸上競技大会に出場。この時初めて、髙田選手はパラリンピックの存在を知りました。
その後、都内のクラブチームに入った髙田選手は、陸上が縁で、夫の裕士選手と巡り逢います。聴覚に障害を持つ裕士選手は、聴覚障害者のオリンピック、デフリンピックの出場経験がありました。二人は一緒にいるとお互いの障害が補い合えることに気付き、結婚。すぐに子供を授かりました。出産のため、一時競技生活を中断あした髙田選手でしたが、2011年、視覚障害者の国際大会、IBSAワールドゲームズの200mで銀メダル、100mで銅メダルを獲得。全盲の女子短距離では、日本人初のメダルでした。13年には、メイン種目を走り幅跳びに変更。猛特訓を重ね、16年のリオ・パラリンピック行きの切符を手にしたのです。リオでは、自身の持つ日本記録を更新する4m45を跳び、8位に入賞。東京を目指し跳躍に磨きをかけ、19年11月にドバイで行われた世界選手権では4m69を跳び、4位に入賞。東京パラリンピック代表に内定しました。
【ゴールボール 浦田理恵選手】
もともと教師を目指していた浦田選手は、20歳の時に網膜の病気で急激に視力が低下し、教師の道を断たれました。そんな時に出逢ったのが、ゴールボール。視覚に障害のある選手がアイシェードと呼ばれる目かくしをつけ、1チーム3人で対戦。鈴が入ったボールを、敵陣のゴールに向かって転がすように投げ合う競技です。浦田選手は2004年、アテネパラリンピックでゴールボール女子日本代表が銅メダルを獲得したのを見て競技を始めました。スポーツの経験がまったくなかった浦田選手ですが、努力と猛練習で、念願の日本代表入りを果たします。
しかし06年、初めて出場した世界選手権で、浦田選手は大柄な外国人選手の投げたボールを受け止めた時に肋骨を折ってしまいました。日本は銅メダルを獲得しましたが、世界の壁を痛感した浦田選手。08年には北京パラリンピックに出場しますが、日本は参加8か国中の7位。4年間の猛練習を重ねて臨んだ12年のロンドン・パラリンピックで、中国を相手にみごと完封勝利。日本は悲願の金メダルを手にしたのです。16年のリオで連覇を逃し、東京パラリンピックで金メダル奪回を目指す女子日本代表。浦田選手は代表落ちも経験しましたが、最終的に代表内定を勝ち取りました。
【車いす陸上 佐藤友祈選手】
小中学校では陸上に励み、高校時代はキックボクシングのジムに通うなど、スポーツに打ち込んできた佐藤選手。しかし2010年、21歳の時に突然、脊髄の病気を発症。車いす生活となり、引きこもりがちな日々を過ごしていました。転機になったのは12年、ロンドン・パラリンピックの車いす陸上の映像を観たことでした。その魅力に引き込まれた佐藤選手は、次のパラリンピックに出てメダルを獲ると決意。4年後のメダリストを目指し、競技生活をスタートさせたのです。
14年、練習場が近い岡山県内のリハビリ施設に入所。そこで出会ったのが、ロンドン・パラリンピックにも出場した車いす陸上の第一人者・松永仁志選手でした。自分の憧れの舞台に立ったパラリンピアンから直接指導を受けるようになると、佐藤選手はメキメキと実力を伸ばし、翌年の世界選手権に初出場。400mで優勝、1500mは3位と好成績を残し、16年のリオ・パラリンピック代表入りを決めたのです。リオでは400と1500m、2種目で金メダルを期待された佐藤選手でしたが、最強のライバルであったアメリカのレイモンド・マーティン選手にどちらも敗れ、銀メダル2つ。しかし17年の世界選手権ではマーティン選手に雪辱を果たし、2種目とも金メダルに輝きました。さらに18年には、その2種目でともに世界新記録をマーク。19年の世界パラ陸上でも優勝し、東京パラリンピック代表に内定したのです。
来週のスポーツ伝説もお楽しみに!!