【サッカー トヨタカップ】
サッカーのクラブ王者世界一を決める、FIFAクラブワールドカップ ジャパン2016が開幕しました。この大会の前身は、かつてヨーロッパと南米のクラブ王者によって行われていたトヨタカップ。その第1回目が行われたのは、1981年2月のことでした。それまではインターコンチネンタルカップという名称で、ヨーロッパ王者と南米王者が互いの本拠地で1試合ずつ戦うホーム&アウエー方式でしたが、当時は両大陸間の移動が大変だったことなどもあり、中立国での1試合勝負に変更になりました。その舞台として、日本の国立競技場が選ばれたのです。そのお陰で、日本のサッカーファンは世界のスーパースターたちのプレーを毎年生で観ることができるようになり、トヨタカップはサッカー人気向上とファン開拓に大きく貢献。やがて国立競技場は、“日本サッカーの聖地”と呼ばれるようになりました。
その後、トヨタカップは横浜国際総合競技場に場所を移し、2000年に始まったFIFAクラブ世界選手権と統合される形で、04年に24年間の歴史に幕を閉じました。その歴史を受け継ぎ、6大陸の王者とJリーグ王者が戦う、今年のFIFAクラブワールドカップ ジャパン2016。今年はどのクラブが世界一の座に輝くのか、楽しみです。
【プロ野球 黒田博樹投手】
去年、メジャー球団からの推定20億円ともいわれる高額オファーを蹴って、広島カープに復帰した黒田投手。2月の復帰会見で「カープに帰るなら今年が最後。帰るなら今年しかない」と語った黒田投手は、メジャーで通用しなくなったから帰って来るのではなく、向こうでも必要とされる状態で帰って来たい、という強い思いを持っていました。それは、まだカープで優勝していないから。現役最後は古巣の優勝に貢献して締めくくりたいという決断は、“究極の男気”と讃えられました。
復帰2年目の今年、その思いはついに実を結びます。9月10日、黒田投手が先発した試合で、カープは25年ぶりの優勝を飾ったのです。日本シリーズ開幕直前に緊急会見を開いた黒田投手は、このシリーズでの登板を最後に引退すると表明。シリーズでは後先のことを考えず、全てを懸けたい。そんな思いを胸に、札幌ドームで行われた第3戦に先発しました。カープはここまで2連勝、勝てば32年ぶりの日本一に王手が掛かる重要な一戦です。このゲームの注目は、3番・指名打者で出場していた、日本ハムの二刀流・大谷翔平選手と黒田投手の対決でした。試合は延長の末、大谷選手のサヨナラヒットで日本ハムが勝利。結果的に、大谷選手を抑えた一球が、黒田投手の現役最後のピッチングとなりました。試合後、大谷選手は「ほぼ全球種を打席で見ることができた。間合いやボールの軌道とか、勉強になりました」とコメント。3打席でわずか8球でしたが、本物のメジャーリーガーのボール、そして勝負に臨む姿勢を、黒田投手は限界に近い体で“後継者・大谷選手”へ伝えたのかもしれません。
【プロ野球 多村仁志選手】
プロ生活22年。日本一も世界一も経験しながら、最後は育成選手として、215という大きい背番号で現役生活を終えたのが、通算195本のホームランを記録したスラッガー、中日ドラゴンズの多村選手です。多村選手は1994年、ドラフト4位で横浜ベイスターズに入団。当初はなかなか結果を残せずに二軍暮らしが続きましたが、2001年の春季キャンプで臨時コーチに招かれた元三冠王・落合博満氏との出会いが飛躍のきっかけとなりました。落合コーチの徹底指導が、結果となって表れたのは04年。日本人バッターとして、球団初のホームラン40本を達成し、打率3割5厘・100打点という成績を残すと、翌05年にも3割・30本を達成。一躍、和製大砲として注目の存在になりました。
06年には、第1回WBC ワールド・ベースボール・クラシックの日本代表に名を連ね、ホームラン3本・9打点と大活躍。ところがこの年に、肋骨を4本も折る大ケガで長期離脱をすると、オフにはトレードでソフトバンクへ。その後も更なるケガとの戦いが続き、07年はわずか39試合の出場に留まりました。それでも10年には、自己最多となる140試合に出場し、打率3割2分4厘・ホームラン27本・89打点と、チーム三冠王の活躍でリーグ優勝に大きく貢献。11年は足の小指を骨折しながらも日本シリーズに強行出場し、自身初の日本一も経験しました。13年、再びトレードでベイスターズに復帰。しかし出番に恵まれず、ついに戦力外通告を受けてしまいます。そんな多村選手に育成選手としてチャンスの手を差し伸べたのが、かつて飛躍のきっかけを与えてくれた、中日の落合ゼネラルマネージャーでした。38歳10ヶ月で史上最年長の育成選手となり、実績も年齢も関係なく黙々と練習に励む姿は、若手選手たちのよき手本になりました。
【プロ野球 岡島秀樹投手】
1993年のドラフト3位で巨人に入団。投げる瞬間に顔を下に向ける独特のフォーム“あっち向いてホイ投法”で活躍したのが、日米で活躍した左腕ピッチャー・岡島投手です。プロ入り当初は制球難に悩み、何人ものコーチがフォームを矯正しようとしましたが、岡島投手は頑なに拒否。そんな中、唯一この変則フォームを認め、その上でコントロールの精度を上げるべく二人三脚で取り組んでくれたのが、98年に巨人のコーチに就任した鹿取義隆コーチです。球筋が安定すると、見慣れないフォームはバッターにとって脅威に。中継ぎやクローザーとして、少しずつ結果を残せるようになった岡島投手は、2000年に日本シリーズの胴上げ投手となり、06年に日本ハムに移籍すると、中継ぎとしてチーム44年ぶりの日本一に貢献したのです。
07年、FA権を行使し、メジャーリーグに挑戦した岡島投手は、ボストン・レッドソックスに入団し、主にセットアッパーとしてチーム最多の66試合に登板。防御率2.22という安定したピッチングで、同僚の松坂大輔投手とともにチームを牽引。チームのワールドシリーズ制覇に貢献します。レッドソックスでは貴重なセットアッパーとして11年までプレーしたあと、12年にソフトバンクへ移籍して日本球界に復帰。56試合に登板し、24ホールド・防御率0.94と、安定したピッチングを披露しました。その後は日米の往復を繰り返し、巨人・日本ハム・レッドソックスに続いて、ソフトバンクでもチームを頂点に導きました。15年はDeNAでプレー。怪我の影響もあって2敗2ホールドと不本意な成績に終わり、オフに戦力外通告を受けますが、今シーズンは40歳にしてメジャーに再挑戦。マイナーリーグのキャンプへ参加する道を選びます。しかしメジャー昇格は果たせず、現役引退を発表しました。そんな岡島投手が再びレッドソックスのユニフォームに袖を通し、フェンウェイ・パークのマウンドに立ったのが、今年8月のこと。日本プロ野球で549試合、メジャーで266試合も投げたピッチャーの最後の一球は、なんと始球式でした。記録にこそ残りませんが、その姿は多くのファンの記憶に刻まれたに違いありません。
【プロ野球 松中信彦選手】
同じ年に、打率・打点・ホームランの打撃3タイトルをすべて獲得する三冠王。日本のプロ野球では、戦後6人しか達成していない偉大な記録です。その中でも、平成になってから達成したただ一人の選手が、今シーズンの開幕前に引退を発表した、福岡ソフトバンクホークスの松中選手です。松中選手は社会人時代の1996年、アトランタオリンピックに日本代表の四番として出場し、銀メダルを獲得。決勝のキューバ戦で同点満塁ホームランを放った勝負強さも評価され、その年のドラフト会議で、当時の福岡ダイエーホークスを逆指名。ドラフト2位で入団します。「全日本の四番は大成しない」というジンクスを心配されながらも、かつて三冠王を2度獲得した王貞治監督の指導のもと、3年目の99年にレギュラーに定着。ホームランを23本放つ活躍を見せました。チームの主砲として、ホークスにとって26年ぶりとなるリーグ優勝と、35年ぶりの日本一にも貢献。翌2000年もリーグ連覇の原動力となり、シーズンMVPも獲得。パ・リーグを代表するスラッガーに成長しました。
小久保裕紀選手・井口資仁選手・城島健司選手らと共にホームランを量産、30本カルテット”の一角を担い、相手投手に恐れられた松中選手。03年に自身初の打撃タイトルとなる打点王を獲得すると、翌04年には、打率3割5分8厘・ホームラン44本・120打点の成績で、平成初となる三冠王を達成します。06年3月に開催された第1回WBC ワールド・ベースボール・クラシックでも日本の四番を務め、日本の世界一に大きく貢献。しかしケガの影響などで少しずつ出場機会を失い、15年の一軍出場数はわずか9試合。遂にバットを置く決意をしました。今後の目標を「三冠王を獲れる選手を育てたい」と語った松中選手。その手によって、第二の松中選手が誕生する日が待たれます。
来週のスポーツ伝説は……
12月12日(月) N B A ティム・ダンカン選手
12月13日(火) N B A ケビン・ガーネット選手
12月14日(水) プロ野球 背番号51列伝
12月15日(木) 体 操 塚原直也選手
12月16日(金) ハンマー投げ 室伏広治選手
お楽しみに!!