スポーツ伝説

7月20日~24日の放送内容

【プロ野球 渡辺久信投手】

 1980年代後半から90年代前半にかけ、黄金期を築いた西武ライオンズ。渡辺投手はその躍進を支えた一人です。83年のドラフト会議で1位指名を受け、西武に入団。2年目の85年、先発・リリーフの両方で大車輪の活躍を見せ、西武のリーグ優勝に貢献します。3年目の86年、16勝を挙げ、初めて最多勝のタイトルを獲得。勝率・奪三振でもリーグトップの成績を収め、チームを日本一に導きました。
 この頃の西武は物怖じしない若手選手の活躍が目立ち、“新人類”という流行語まで生まれたほどです。特に渡辺投手は、グラウンド外でも最先端のファッションを着こなし、新たな野球選手像を生みだしました。グラウンドでも、88年から3年連続で15勝以上を挙げ、90年は自己最多の18勝をマーク。3度目の最多勝投手に輝きました。



【プロ野球 淡口憲治選手】

 淡口選手は、1970年のドラフト会議で巨人から3位指名を受けて入団。長嶋茂雄監督就任1年目の75年、勝負強さを買われて3番や5番で先発起用され、114試合に出場。規定打席には届きませんでしたが、打率2割9分3厘を記録し、レギュラーへの足掛かりを作りました。淡口選手のバッティングの特徴は、独特なフォームとスイングスピードの速さ。その速さは球界一で、“コンコルド打法”と呼ばれました。 
 この“コンコルド打法”を武器に、79年から6年連続で100試合以上に出場。右投手にはめっぽう強い反面、相手が左投手の時はスタメンを外れることも多く、巨人に在籍した15年間で規定打席に達したのは、83年のたった1度だけでした。85年オフには、トレードで近鉄バファローズに移籍。すると移籍1年目の86年から115試合に出場。主に5番打者を務め、89年の近鉄にとっては9年ぶりとなるリーグ優勝に貢献しました。



【プロ野球 山﨑武司選手】

 1986年のドラフト2位指名で中日ドラゴンズに入団した山﨑選手。地元の逸材として期待されながらも、一軍と二軍を往復する日々が続きました。転機は95年オフの星野仙一監督の指揮官復帰。当時体重が110kgあった山﨑選手は、星野監督に20kg痩せるよう命じられました。これを受け、山﨑選手は96年2月、体重22kg減の88kgでキャンプイン。体が軽くなった山﨑選手は、レギュラーに定着。この年39本のホームランを放ち、初のホームラン王に輝いたのです。
 2005年、山﨑選手は仙台に誕生したばかりの新球団・東北楽天ゴールデンイーグルスに移籍。移籍2年目の06年に出逢ったのが、名将・野村克也監督でした。野村監督は山崎選手に、三振を恐れず思い切って振ってくること。そして、もっと相手キャッチャーの配球を読んで打席に立つようアドバイス。これが実を結び、移籍3年目の07年、山﨑選手は自己最多のホームラン43本を放ち、11年ぶりのホームラン王に輝きました。今は共に故人となった星野監督・野村監督との出逢いが、山﨑選手をセ・パ両リーグホームラン王へと導いたのです。



【プロ野球 渡辺智男投手】
 
 高知県の伊野商業時代、ケガを乗り越えて1985年春のセンバツに初出場。無名校ながら、甲子園常連校を次々と破りセンバツ初出場・初優勝を果たした渡辺投手。高校卒業後は社会人野球のNTT四国に進み、3年連続で都市対抗野球に出場。この活躍で、ソウルオリンピックの日本代表にも選ばれます。国際大会での連投がたたり古傷の右ヒジを故障しますが、西武ライオンズはその才能に惚れ込み、88年のドラフト会議で渡辺投手を1位指名しました。
 89年は右ヒジの治療のため出遅れ、一軍に合流できたのは5月下旬でしたが、オーバーハンドから繰り出す150キロを超える快速球に加えて、鋭い高速スライダーや緩急をつける大きなカーブでも打者を惑わせ、プロ1年目から10勝、翌90年には自己最多の13勝をマーク。さらに91年も11勝を挙げ、最優秀防御率のタイトルに輝いた渡辺投手。スピードガンの表示以上に威力のある快速球で、かつての怪物投手にちなみ、“江川卓2世”と呼ぶメディアもありました。

  

【プロ野球 宮本賢治投手】
 
 亜細亜大学のエースとして東都大学リーグで通算35勝を挙げ、1981年のドラフト1位でヤクルト入りした宮本投手。しかし「ヤクルトのドラ1ピッチャーは、ルーキーイヤーに勝てない」とのジンクス通り、1年目の82年は、先発で5試合に投げながら白星を挙げられていませんでした。ですが、強気な投球はリリーフ向きと、配置転換されたことが功を奏します。5月の巨人戦で7回から登板すると、気迫だけで投げた3イニングをパーフェクトに抑え、ついにプロ初勝利をマーク。当時のヤクルトにとっては、10年ぶりのドラフト1位投手の白星となりました。
 1年目の82年は、36試合に登板し4勝6敗。プロ入りから8年連続で30試合以上に登板し、投手陣の屋台骨を支えた宮本投手。そんな宮本投手にとって転機となったのが、90年の野村克也監督就任でした。野村監督の教えを受けて投球フォームも改造。アンダースローから、横手投げのサイドスローに転向します。するとこれが成功し、90年に初のふたケタ勝利となる11勝を挙げたのです。宮本投手は、その後も貴重な中継ぎとして活躍。野村監督からも「困ったときの宮本」と信頼され、93年と95年の日本一に貢献しました。


        
来週のスポーツ伝説は……

7/27(月) バレーボール 三屋裕子選手
7/28(火) バレーボール 狩野舞子選手
7/29(水) 柔  道 山口香選手 
7/30(木) マラソン 有森裕子選手
7/31(金) 競  泳 青木まゆみ選手 
                       
お楽しみに!!
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