【テニス 清水善造選手】
清水選手は、1920年に日本人選手として初めて、4大大会の1つであるウィンブルドンに出場。準決勝まで進む快挙を見せました。群馬県の農家の長男として生まれた清水選手は、中学時代から軟式テニスを始め、現在の一橋大学の前身に当たる東京高等商業に合格し上京。テニス部に入部し、4年生になると主将を務めるほどの腕前になりました。卒業後は三井物産に入社。商社マンとしてインドのカルカッタに10年間勤務し、ここで硬式テニスを学びます。
仕事のかたわら本格的に競技にも打ち込み、29歳で日本人初のウィンブルドン出場を果たした清水選手。準決勝で当たった相手は、当時世界トップの実力者だった、アメリカのビル・チルデン選手でした。清水選手は第1セット・第2セットをいずれも4対6で落としますが、続く第3セットは5対2とリード。あと1点取ればこのセットをものにできるところまで持ち込みながらも、転倒したチルデン選手を思いやった返球をした結果、11対13で敗れてしまいます。翌日のロンドンタイムスは、「シミズはスポーツマンシップがどんなものかを示してくれた」と、清水選手を讃える記事を掲載。その後も試合内容で観客たちを唸らせた清水選手は、そのにこやかな笑顔から“スマイリー・シミー”の愛称で、海外でも親しまれました。
【テニス 佐藤次郎選手】
錦織圭選手の全仏オープンでの最高順位は、2015年のベスト8。佐藤選手は今から80年以上前の1931年、そして33年の二度にわたって、錦織選手の成績を上回る、全仏オープンでのベスト4入りを果たしています。世界ランクで最高3位にまで上りつめた、戦前の伝説的プレーヤーです。粘り強く、勇猛果敢なプレースタイルから“ブルドッグ・サトー”の愛称で海外のテニスファンからも人気を集めました。
早稲田大学在学中の30年、22歳の時に全日本選手権を初制覇。翌31年からはテニスの国別対抗戦デビスカップの日本代表に選ばれ、個人としても世界4大大会への挑戦を始めます。するとこの年、いきなり全仏オープンでベスト4に進出。世界ランク9位に入り、一躍世界のトッププレーヤーの仲間入りを果たしました。佐藤選手はその後も、32年の全豪オープンテニスとウィンブルドン選手権、33年の全仏オープンとウィンブルドンでベスト4に進出。4大大会で、計5回のベスト4進出は、日本人最多記録です。中でも、33年の全仏オープンでは、当時“テニスの神様”とうたわれたスター選手、イングランドのフレッド・ペリーを破ってのベスト4。また、同じ年のウィンブルドン・ダブルスでは、布井良助選手とのペアで準優勝という快挙も達成。世界ランク3位にまで上りつめたのもこの年でした。
【テニス ビョルン・ボルグ選手】
テニスの世界4大大会、通称グランドスラムにおいて、唯一、赤土のクレーコートで行われるのが全仏オープンテニス。球足が遅いためにラリーが続きやすいこのクレーコートを得意とし、世界的なテニス人気の火付け役となったのが、スウェーデン出身のボルグ選手です。4大大会での優勝回数は11回。そのうちの6回が全仏オープンでの優勝でした。1972年、16歳のシーズンにツアーデビューすると、18歳で全仏オープン優勝。翌年も優勝し、連覇を果たします。折しも、68年からプロに門戸を開放し、ニュースターの登場を待ちわびていたテニス界。ボルグ選手は、一躍時代の寵児となりました。
ボルグ選手の登場で、テニス界をめぐるビジネスも大きく変貌を遂げます。今でこそ、プロスポーツ選手は身につけるウェアから道具にいたるまで、すべてにスポンサーがつくのが当たり前ですが、その先駆けとなったのがボルグ選手でした。テニス界で初めてウェア契約を結び、長髪を留めるヘアバンドひとつにもスポンサーがつく人気ぶり。試合会場はボルグ選手見たさで観客数が増加。テレビの視聴率もどんどん上がり、テニス界全体がボルグ選手の影響で潤いました。ビジネス以外の面でも、両手打ちのバックハンドの元祖であり、ボールに順回転をかける強烈なトップスピンを主流にしたのもボルグ選手。当時としては最先端のそのプレースタイルで、78年から81年にかけては、全仏オープン4連覇を達成。また、芝生コートのウィンブルドンでも強さを発揮し、76年から80年にかけては、ウィンブルドン5連覇の偉業を成し遂げています。
【サッカー 2004-05年 リバプール対ACミラン】
世界でもっともハイレベルな戦いといわれる、UEFAチャンピオンズリーグ。前身の大会となるチャンピオンズカップがスタートしたのが1955年。以降、半世紀以上に渡って数々の名勝負が繰り広げられています。特に決勝戦は、ホーム&アウェー方式で行われる準決勝までと違い、中立地での一発勝負のため、時に誰も予想できない展開の試合が生まれます。2004-05年シーズンの決勝戦、イングランドのリバプール対イタリアの名門・ACミランの戦いがその代表例です。
決勝戦の舞台は、トルコ最大の都市イスタンブール。開催国トルコのカラーは赤。リバプールとACミランのチームカラーも赤。真っ赤に染まったスタジアムで、記念すべき50回目の決勝戦は始まりました。すると、開始52秒で、セットプレーから“ミランの象徴”と呼ばれたキャプテンのパオロ・マルディーニ選手が華麗なボレーシュートを決め、決勝戦史上最速のゴールを記録。先制したミランは、前半39分にもブラジル代表のカカ選手を起点にチャンスを作り、最後はアルゼンチン代表のフォワード、クレスポ選手がゴール。前半44分にも、カカ選手のスルーパスにクレスポ選手が反応し、技ありのループシュートで前半を3対0で折り返します。
しかし、リバプールは諦めませんでした。後半9分、イングランド代表でリバプールのキャプテン、ジェラード選手がヘディングが決めると、その2分後にも得点を決めて1点差に。さらに4分後には、ACミランのファウルからPKを獲得し、スペイン代表のシャビ・アロンソ選手が決めてついに同点。結局90分では決着が付かず、大会史上13回目の延長戦に突入しますが、両チームともゴールを決めることはできず、勝負はPK戦へ。最後に笑ったのは、3点差の劣勢から追いついたリバプールでした。まさかの大逆転劇に、リバプールのサポーターはこの勝利を「イスタンブールの奇跡」と呼び、喜びを爆発させたのは言うまでもありません。
【サッカー 2005-06年 FCバルセロナ対アーセナル】
ビッグクラブであっても、なかなか立つことができない大舞台、UEFEチャンピオンズリーグ決勝戦。世界的名将といわれるアーセン・ベンゲル監督にとっても、例外ではありませんでした。ベンゲル監督といえば、Jリーグ・名古屋グランパスの監督を務めたことから、日本でもよく知られた存在です。その名古屋で指揮をとったあと、1996年10月からイングランド・プレミアリーグ、アーセナルの監督に就任。サッカーの母国においても名将ぶりを発揮し、就任2年目には早くもプレミアリーグ制覇を達成します。
イングランド国内ではすぐに結果を出したベンゲル監督ですが、チャンピオンズリーグ決勝戦に進出できたのは、就任から10年目の2005-06年シーズン。相手はスター軍団、スペインのFCバルセロナでした。ただ、バルセロナにとっても、チャンピオンズリーグを制したのはそれ以前に一度だけ。なんとしても優勝トロフィーを掲げたい、ビッグクラブ同士の意地と意地がぶつかる決勝戦となりました。下馬評ではアーセナル有利でしたが、結果は、不利な状況を5分でひっくり返したバルセロナの勝利。この勝利で二度目の優勝を果たしたバルセロナは、それまで勝てなかったのがウソのように、以降10年間で3度も優勝。一方のアーセナルとベンゲル監督は、以降一度も、決勝の舞台に立つことすらできていません。
来週のスポーツ伝説もお楽しみに!!