スポーツ伝説

6月21日~25日の放送内容

【プロ野球 エイドリアン・ギャレット選手】

 メジャーリーグ4球団を渡り歩いたのち、1977年に広島カープに入団したギャレット選手。苦しんだメジャー時代とは異なり、1年目から打率2割7分9厘、ホームラン35本、91打点の好成績を挙げます。守備では、本職の外野やファーストだけでなく、キャッチャーもできる器用さがあり、日本球界に見事に適応してみせました。翌78年、ギャレット選手は開幕から4試合続けてホームランを放つ好調ぶりを見せると、4月だけでなんとホームラン15本を放ち、世界のホームラン王・王貞治選手に並ぶ、当時の月間ホームラン日本タイ記録をマーク。またこの年、本拠地・広島市民球場で開催されたオールスターゲームに出場すると、1試合3ホーマーを放ってオールスター史上初の快挙を成し遂げました。
 ギャレット選手のバッティングは夏以降も衰え知らず。最終的にホームラン40本、97打点を記録します。この年のカープはペナントレースの順位こそ3位でしたが、チーム打率は2割8分4厘とリーグトップ。しかも山本浩二選手、ジム・ライトル選手、衣笠祥雄選手がホームラン30本以上を記録して‟30発カルテット”が誕生。チーム本塁打は年間205本に達し、これは今も燦然と輝く球団最多記録です。翌79年、強力赤ヘル打線は4年ぶりとなるリーグ制覇を達成。ギャレット選手もホームラン27本を記録し、優勝に貢献しました。
  


【プロ野球 タイロン・ウッズ選手】

 韓国のプロ野球でホームラン王と打点王を獲得し、2003年に鳴り物入りで来日したウッズ選手。最初に入団したのは横浜ベイスターズでした。その横浜では、期待通りに1年目からホームラン40本、翌04年は45本を放ち、2年連続でホームラン王に輝く実力を見せます。しかし横浜とは3年目からの契約をめぐって交渉が決裂。そこへ長距離砲を求めていた中日が、当時の球団史上最高額・年俸5億円を提示。優勝を経験したいと語っていたウッズ選手にとっても、前年04年に優勝してリーグ連覇を狙う中日は願ってもないチームでした。
 中日での1年目は、打率3割6厘・ホームラン38本・103打点の好成績を残しますが、個人タイトルは獲れず。リーグ優勝も阪神にさらわれてしまいます。しかし翌06年10月10日、東京ドームでの巨人戦。ウッズ選手は4回に先制の46号スリーランを放つと、延長12回にも満塁ホームランを放ち、ついに念願の優勝を手にしたのです。この年、ウッズ選手はホームラン47本を放ち、144打点を挙げ、2冠王に輝いています。07年は、中日にとって53年ぶりとなる日本一にも貢献。ウッズ選手は‟最強の助っ人”の1人として、日本のファンの記憶に刻み込まれています。


 
【プロ野球 マット・キーオ投手】

 メジャーリーグでアスレチックスやヤンキースなど5球団を渡り歩き、1987年に阪神タイガースへ移籍したキーオ投手。来日2年前の85年、阪神は21年ぶりのリーグ優勝と日本一に輝きました。しかし、翌86年はエース不在が響き3位。そんな投手陣の救世主として入団したのがキーオ投手でした。188㎝の長身から投げ下ろすストレートと、切れ味鋭いカーブ、さらに当時、魔球と呼ばれたスプリット・フィンガード・ファストボールを操りオープン戦で16イニング無失点の好成績を残したことから、吉田義男監督はいきなり開幕投手を任せます。初来日の外国人ピッチャーが開幕投手を務めるのは、史上初の出来事でした。
 大役を任され開幕戦のマウンドに立ったキーオ投手でしたが、ヤクルト打線につかまり、7回途中5失点でノックアウト。しかし2戦目の大洋戦で、来日初勝利を完投で飾りました。この年の阪神は打線が振るわず、首位巨人と37.5ゲーム差の最下位に沈みます。そんな中でもキーオ投手はチームでただひとり、2ケタの11勝をマークしました。しかし在籍した87年からの4年間、チームは、6位・6位・5位・6位とBクラスに低迷。そんな中でも3年連続2ケタ勝利を挙げ、通算45勝をマークしました。



【プロ野球 テリー・ブロス投手】
 
 身長205cm、体重102㎏の大きな体を生かし、大学時代はバスケットボールで全米選手権ベスト4入りを果たしたブロス投手。大学最終学年で足を骨折したこともあってバスケの道を断念し野球に挑戦すると、1987年のメジャーリーグドラフトでニューヨーク・メッツに指名され入団。しかしメジャーでは、10試合に登板して0勝と不遇の時代を過ごします。そんなブロス投手にとって転機となったのは、29歳だった95年。日本球界に活路を求め、アリゾナ州ユマで春季キャンプを行っていたヤクルトの入団テストを受けたことでした。
 テストでは思ったところにボールが投げられないブロス投手の獲得に賛否が分かれる中、野村克也監督は「磨けば光る」と評価。名将のひと言でヤクルト入団が決まりました。そんな監督の期待に応えるように、ブロス投手は開幕から快進撃を見せます。長身から投げ下ろすストレートと日本で覚えた落ちるスライダーを効果的に使い、開幕4連勝で4月の月間MVPに輝いたのです。来日1年目の95年、序盤から勝ち星を重ねたブロス投手が最も得意とした相手は巨人でした。東京ドームの固いマウンドが自分に合っていたというブロス投手は、5勝0敗・防御率0.23と無類の巨人キラーぶりを発揮。9月9日には、巨人を相手に外国人投手史上3人目の快挙となるノーヒットノーランを達成しています。



【プロ野球 荘勝雄投手】 

 荘投手がその名声を高めたのは、日本球界よりも先に世界の舞台でした。1983年の世界選手権に台湾代表のエースとして出場すると、5勝0敗という文句なしの成績で大会MVPを受賞。さらに翌年のロサンゼルスオリンピックでも銅メダル獲得に貢献し、台湾では国民的ヒーローともいえる活躍を見せました。85年、荘投手は日本のロッテオリオンズに入団。身長は175㎝と小柄ながらも、強い足腰から繰り出す最速148キロのストレートに加え、1試合でバットを3本へし折ったこともあるというカミソリシュート、さらにはカーブ・スライダー・ナックルと多彩な変化球を駆使し、1年目から11勝をマーク。オールスターにも出場を果たしたのです。
 2年目の86年、チーム事情から抑えを任された荘投手は、当時のリーグ新記録となる10連続セーブポイントをマークします。イニングまたぎで投げることも多く、リリーフにもかかわらず規定投球回にも到達して2年連続11勝。さらにはリーグ3位の防御率3.15という数字を残します。3年目に先発に戻ると、自己最多の13勝をマーク。その勝ち星以上に凄かったのが230イニングを投げて20完投というタフネスぶりです。荘投手はこの年を含め、3年連続で200イニング以上を投げ、来日1年目から5年連続で2ケタ勝利をマーク。88年のセ・リーグMVPに輝いた中日・郭源治投手、快速球で‟オリエント・エクスプレス”と呼ばれた西武・郭泰源投手と共に、荘投手は‟台湾出身の二郭一荘”と呼ばれ、一時代を築きました。



来週のスポーツ伝説は……

6/28(月) ラグビー 五郎丸歩選手
6/29(火) ラグビー ボーデン・バレット選手
6/30(水) ラグビー グレイグ・レイドロー選手
7/1(木) 大相撲  千代大龍秀政関
7/2(金) 大相撲  千代ノ皇王代仁関

お楽しみに!!
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