【後楽園球場】
1937年に東京の都心に開場した後楽園球場は、巨人軍の創設者・正力松太郎氏などが中心になって建設されました。最初に本拠地としたのは後楽園イーグルスという球団でしたが、正力氏が出資者だったこともあり、次第に巨人軍のホームとして使われるようになります。2リーグ制が始まった50年にはナイター設備も設置され、プロ野球の一大拠点となりました。この頃は巨人だけでなく、国鉄・大映・毎日・東急の5球団が後楽園球場を本拠地としたため、プロ野球全試合の約3割がこの球場で開催されていたのです。
数々の名場面・名勝負が生まれた後楽園球場ですが、隣接する後楽園競輪場の跡地に新球場・東京ドームが建設され、開場からちょうど50周年を迎えた87年、巨人と西武の日本シリーズを最後に閉場。現在、跡地は東京ドームシティと東京ドームホテルの敷地に姿を変えています。
【川崎球場】
川崎球場は、川崎に社会人野球とプロ野球の試合もできる新しい球場を建設しようと、文壇屈指の野球好きで知られた作家の久米正雄さんが社長となって52年にオープンしました。54年にここを始めて本拠地としたのは、パ・リーグの高橋ユニオンズ。55年からは大洋ホエールズのホームグラウンドとして知られるようになっていきます。その川崎球場が一躍ファンの注目の的になったのは、60年。それまで6年連続最下位で“セ・リーグのお荷物”と言われていた大洋の監督に、強豪・西武ライオンズの監督を辞任したばかりの知将・三原脩さんが就任。球団史上初のリーグ優勝を達成したのです。更に日本シリーズも制して日本一となり、“三原マジック”と呼ばれました。しかしその後チームは再び低迷を続け、77年シーズンを最後に新設された横浜スタジアムへ本拠地を移転。代わってロッテオリオンズが川崎球場をホームとすることになりました。
数々の名勝負を演じたロッテですが、91年限りで、新設された千葉マリンスタジアム(現・QVCマリンフィールド)へ本拠地を移転。2000年3月に大洋を前身とする横浜ベイスターズと、千葉ロッテマリーンズとのオープン戦を最後に野球場としての役目を終えました。現在は主に、アメリカンフットボールのスタジアムとして使用されています。
【西宮球場】
オリックス・バファローズの前身である阪急ブレーブスが本拠地として使用していたのが、兵庫県西宮市にあった西宮球場です。阪急電鉄の創業者であり、阪急ブレーブスの生みの親でもある小林一三氏の肝いりで1937年に完成したこの球場は、ライバルの阪神電鉄が造った甲子園球場に負けないスタジアムにするべく、メジャーリーグ、シカゴ・カブスのホームであるリグレー・フィールドなどを見本に建設されました。初めて西宮球場で行われたプロ野球の試合は、37年5月5日に行われた巨人対イーグルス戦と、阪急対名古屋戦。巨人は伝説の名投手・沢村栄治投手が完投勝利を飾り、阪急も記念すべき初戦に圧勝しています。また72年に日本球界初のシーズン3ケタ盗塁を記録した“世界の福本”こと福本豊選手が、当時のメジャー記録を破る105盗塁を記録したのも西宮球場でした。結局福本選手は盗塁を106まで伸ばし、これは44年経った今でも日本記録となっています。
88年、阪急はオリックスに突然球団を売却。91年にオリックスが本拠地を神戸に移したため、プロ野球の試合は大幅に減り、老朽化と経営難から2002年をもって西宮球場は取り壊しが決定されました。その跡地は再開発され、現在はショッピングセンターになっています。
【大阪球場】
かつて南海ホークスが本拠地としたスタジアム・大阪球場は、繁華街ミナミの真ん中に建設され、難波駅から歩いてすぐという抜群の立地を誇りました。狭い土地にたくさんのお客さんを収容するため、スタンドの傾斜は37度という急勾配。球場全体がすり鉢状となり、外野までの距離も短くなって、開場当時は両翼が84mしかありませんでした。杉浦忠投手をはじめとした南海のピッチャーたちは一発を避けようと工夫を重ね、自然と制球力が磨かれていったといいます。
しかし阪神・巨人のいるセ・リーグに人気を奪われ、南海も73年のリーグ制覇を最後に優勝から遠ざかっていきます。久々に日本シリーズが行われたのは、79年の近鉄対広島戦。近鉄の本拠地・藤井寺球場が当時、日本シリーズの開催基準を満たしていなかったための代替措置でした。88年には、南海はダイエーへの球団売却を発表。ホークスは大阪から福岡に移転することになり、90年を最後に大阪球場は野球場としての役目を終えました。一時期は住宅展示場として利用されていましたが、解体後はショッピングタウンに姿を変えています。
【駒沢球場】
北海道日本ハムファイターズの前身にあたる東急フライヤーズのために、親会社の東急電鉄が1953年に造ったのが駒沢球場です。当時の後楽園球場の過密日程を緩和すべく、東京都世田谷区の駒沢総合運動公園の一角に突貫工事で築かれました。しかし翌54年から、東急は東映に球団運営を委託。球団名も東映フライヤーズと変わりましたが、チームは弱く、都心からやや離れていたためにお客さんが数百人しか入らないこともありました。そこで東映は大型補強を始め、59年に張本勲選手が入団。新人王に輝き、チームも初のAクラス入りを果たします。更に61年から水原茂監督が指揮を執ると、東映は優勝争いに加わる快進撃を見せ、渋谷駅から球場への直行バスは連日満員の大盛況に。内外野共にネットが低く、ファウルゾーンも狭いことが選手とファンの距離を縮め、駒沢球場はかつてない熱気に包まれました。
ところがこの年、東京オリンピックの会場整備に充てるため、球場用地を都に返還することが決まります。これにより東映は神宮球場に本拠地を移転。駒沢球場は惜しまれつつ、わずか9年でその短い歴史に幕を下ろしました。現在、駒沢オリンピック公園内にある駒沢球場は場所を変えて建設された2代目で、アマチュア専用の球場として利用されています。
来週のスポーツ伝説は……
『プロ野球 新人王』
お楽しみに!!