【プロ野球 山崎裕之選手】
プロ野球の第一回ドラフト会議が開催されたのは、1965年。このドラフト制度発足の要因の一つと言われているのが、東京オリオンズに入団した山崎選手です。上尾高校時代は“長嶋2世”と呼ばれ、甲子園にも出場。複数の球団が熱い視線を送った逸材でした。“ゴールデンボーイ”の名をほしいままにした山崎選手は、結局ロッテの前身・東京オリオンズに入団を決めます。この時の契約金が当時としては破格の5000万円だったとも言われ、これがドラフトのきっかけになったともいわれました。
高額契約金報道も手伝って、ファンからも注目を集めた山崎選手。しかしプロの世界は厳しく、2年目までの打率は1割台。転機となったのは、69年でした。ショートからセカンドにコンバートされると、一気に素質が開花。打率3割1厘をマークし、通を唸らせるポジショニングとしぶとい打撃でチームの勝利に貢献。いつしか、いぶし銀の職人へと生まれ変わったのです。
【プロ野球 野田浩司投手】
阪神・淡路大震災から、今年で20年。1995年、『がんばろうKOBE』のワッペンをつけ、オリックスが躍動。仰木監督のもと、伝説の優勝の原動力となったのが野田投手です。4月21日のロッテーオリックス戦で、オリックス先発の野田投手は、序盤から伝家の宝刀・フォークボールが冴え渡りました。4回で10奪三振を記録し、8回には自身が持つ日本記録を更新する18奪三振をマークしました。結局記録は19まで伸ばしますが、打線の援護がなく、10回から登板した平井投手が打たれてサヨナラ負け。残念な記録更新となってしまいましたが、1試合15奪三振を4回も記録したのは、野田投手と通算400勝の金田正一投手の2人だけです。
【プロ野球 橋本到選手】
今シーズンの原巨人は、V9以来の4連覇を目指します。ところが、スタートダッシュに失敗。そんな状況を一転させたのが、橋本選手の1軍への再合流でした。4月15日、原監督がインフルエンザで戦線離脱。監督代行を務めることになった川相ヘッドコーチは、故障した亀井選手の代わりに橋本選手を置くよう指示されました。すると早速、3番に抜擢された橋本選手が2ランを含む3安打3打点の大活躍。今シーズン、開幕直後のわずか1打席だけしか1軍にいなかったとは思えない変貌ぶりでした。
入団時から、肩と足は12球団トップクラスの評価がありました。そこでファームの試合では、センターからイチロー選手のようなレーザービームを披露。しかし当時2軍監督だった川相さんから、スタンドプレーを叱責されました。他のコーチたちからも、厳しく指導を受けた2軍での生活。今の活躍は、その頃の厳しさに裏打ちされたものなのです。
【柔 道 古賀稔彦選手】
1992年バルセロナオリンピック、男子柔道71キロ以下級で金メダルを獲得した古賀選手は、直前の稽古で古傷の左膝を負傷。ドクターストップがかかるほどの症状で、出場は絶望的と思われていました。試合までは10日あまり。しかも制限体重をオーバーしていた古賀選手は、練習できない状態で減量するという、二重の試練に直面したのです。
痛みが全くひかないまま迎えた当日、古賀選手は患部をテーピングで固定し、試合前と準決勝前に痛み止めの注射を6カ所ずつに打ってのぞみました。すると、痛みを感じなくなった代わりに足の感覚がなくなり、思うように動かせません。それでも「最悪の状況でも、絶対に勝つ方法があると、そればかりを考えていた」という古賀選手。ハンガリーのハイトシュ選手との決勝戦を判定で制し、ソウル大会での3回戦敗退の無念を晴らしました。
【大 相 撲 2代目若乃花関】
第56代横綱・2代目若乃花関が横綱昇進を決めた一番は、全勝の横綱・北の湖関を相手に、捨て身で臨んだ一番でした。普段よりまわしをきつく締めて、上手投げの打ち返しに成功。その代わり、自身もまわしの締めすぎで肋骨を骨折してしまったのです。優勝決定戦では北の湖関に負けたものの、前2場所でそれぞれ13勝を挙げていたことから、横綱昇進が決定。昇進後は、16場所連続ふた桁勝利をあげ、3場所目の1978年11月場所には全勝優勝。幕内優勝は通算4回だったものの、ファンの印象に残る一番が多く、安定感も抜群。女性ファンからも絶大な人気がありました。
来週のスポーツ伝説は……
6月1日(月) 大リーグ イチロー選手
6月2日(火) プロ野球 福浦和也選手
6月3日(水) プロ野球 和田豊選手(現監督)
6月4日(木) 柔 道 吉田秀彦選手
6月5日(金) 卓 球 石川佳純選手
以上の5選手をご紹介します。