【プロ野球 ロドニー・ペドラザ投手】
福岡ソフトバンクホークスの歴史に大きな足跡を残し、ファンから愛された外国人クローザー・ペドラザ投手。1999年、福岡ダイエーホークスに入団。この年、福岡ダイエーは球団創設11年目にして初のパ・リーグ制覇を達成。さらに日本シリーズでもセ・リーグの覇者・中日ドラゴンズを倒し、ホークスは南海時代の64年以来、35年ぶりの日本一に輝きました。そしてリーグ優勝・日本一決定の試合でともに胴上げ投手となったのが、守護神のペドラザ投手でした。ホークス入団時は、先発投手として期待されていたペドラザ投手。ところが、ピッチングを見た尾花高夫投手コーチがクローザーへの配置転換を決断。これが結果的に功を奏し、99年は48試合に登板して3勝1敗27セーブ、防御率1.98という安定感のあるピッチングでリーグ優勝と日本一に貢献したのです。
ペドラザ投手の活躍はその後も続き、翌2000年には51試合に登板し、3勝4敗35セーブ。自身初のタイトルとなる最優秀救援投手賞を獲得し、2年連続でリーグ優勝に貢献。この年もペドラザ投手が胴上げ投手になりました。続く01年も、チームは2位ながら、54試合に登板し4勝4敗34セーブ。2年連続で最優秀救援投手賞を獲得し、ホークスの歴史に残る守護神となりました。日本球界での通算成績は、12勝12敗117セーブ。そのすべてのセーブは、福岡ダイエーホークスでの4年間で記録したもの。まさに鷹の絶対的守護神でした。
【プロ野球 佐藤道郎投手】
1969年、故障者が相次いで球団創立後初の最下位に沈んだ南海ホークスが、この年のドラフトで起死回生を目指してドラフト1位で指名したのが、日本大学のエース・佐藤投手です。入団1年目の70年、この年から選手兼任のまま指揮官に就任した野村克也監督によって新人ながらリリーフの柱に抜擢され、リーグ最多の55試合に登板。18勝を挙げてチームの勝ち頭となり、防御率2.05でリリーフ投手ながら最優秀防御率のタイトルも獲得。パ・リーグ新人王にも輝きました。74年から、リリーフ投手に対するタイトルとして、セ・パ両リーグで「最多セーブ投手」の表彰が始まりましたが、佐藤投手は13セーブを挙げ、パ・リーグの初代セーブ王に輝いています。この年は、防御率1.91という素晴らしい成績を残し、セーブ王と同時に2度目の防御率1位にも輝いています。
ところがプロ8年目の77年、前年に阪神とのトレードで獲得していた江夏豊投手を野村監督はリリーフに転向させ、佐藤投手は先発に回ることになりました。先発転向1年目、佐藤投手は7完投を記録。12勝を挙げ、みごと野村監督の期待に応えてみせました。翌78年オフに、佐藤投手はトレードで横浜大洋ホエールズに移籍。ホークスを去りましたが、引退後はロッテ・中日・近鉄で指導者として、多くの投手を育てています。
【プロ野球 門田博光選手】
ホークスは過去、二人の偉大なホームランバッターを生んでいます。一人は、8年連続パ・リーグホームラン王に輝き、通算657本のホームランを放った野村克也選手。通算ホームラン数では、巨人・王貞治選手の868本に次ぐ歴代2位の記録ですが、実は歴代3位もホークスの選手。567本のホームランを打った、門田選手です。1969年のドラフトで、南海ホークスから2位指名を受けて入団。2年目の71年から早くも頭角を現し、ホームラン31本、120打点を挙げて、打点王のタイトルを獲得しました。
当時は三番を打ち、中距離ヒッターだった門田選手ですが、実は本人にはもともとホームランバッターへの強い憧れがありました。プロ1年目、兼任監督で四番バッターだった野村選手の打球に衝撃を受けた門田選手。そんな中、転機になったのが、79年のキャンプ中に負ったアキレス腱断裂の大ケガです。復帰後も足の状態は思わしくなく、「ならば全打席でホームランを狙おう」と決意しました。あえて重いバットを使い、渾身のフルスイングで打球をスタンドに運んだ門田選手。血のにじむような努力が実り、81年は44本、83年に40本のアーチを放ち、ホームラン王に輝きました。選手生命を脅かすケガをあえて発奮材料にしたことが、奇跡の復活を生んだのです。つづく4シーズンは40本に届かず、ホームラン王のタイトルもご無沙汰になりましたが、88年は「40歳でホームラン44本」という偉大な記録で5年ぶりにキングの座を奪還。88年は、打点王とリーグMVPにも輝いています。
【プロ野球 皆川睦雄投手】
日本のプロ野球には、今後もう二度と破れないのではないかといわれる不滅のシーズン記録がいくつか存在します。稲尾和久投手とヴィクトル・スタルヒン投手によるシーズン42勝はその代表例ですが、42勝はおろかシーズン30勝投手も半世紀の長きにわたり出ていません。その「最後の30勝投手」が、南海ホークス一筋18年。通算221勝を挙げた皆川投手です。高校時代は甲子園の舞台に立つことはできませんでしたが、ある試合で審判を務めた元プロ野球選手がその素質を見抜き、南海の鶴岡一人監督に進言。プロ入りを果たしました。しかし最初の2年間は勝ち星ゼロ。入団3年目の1956年にプロ初勝利を含む11勝を挙げ、これからという時に今度は右肩を故障してしまいます。この逆境をきっかけに決断したのが、オーバースローからアンダスローへのフォーム改造。この変更で、皆川投手は8年連続2ケタ勝利を挙げるまでに成長したのです。
毎年のように安定して2ケタ勝利を記録した皆川投手ですが、当時は20勝して初めてエースと呼ばれた時代。また、左バッターを苦手にしていたこともあり、ずっと二番手ピッチャーの座に甘んじていました。そんな万年二番手の状況を打破すべく、皆川投手は同期入団のキャッチャー・野村克也選手と共に、左バッター対策として内角に小さく食い込む変化球をマスター。その変化球こそ、日本球界初のカットボールでした。68年のオープン戦で巨人・王貞治選手を相手に試し、小フライに打ち取って自信を深めると、ペナントレースでもパ・リーグの左の強打者たちをナデ切りにし、初の20勝どころか31勝を挙げたのです。皆川投手はこの年、通算200勝を達成。最優秀防御率と最多勝のタイトルも獲得しました。その後、引退までに重ねた勝ち星は通算221勝。これは南海・ダイエー・ソフトバンクを通じた「ホークスの球団記録」として、今も燦然と輝く歴代トップの数字です。
【体操女子 村上茉愛選手】
いよいよ2年後に迫った東京オリンピック。この大舞台で、メダルラッシュを期待されている競技が体操です。
村上選手の得意種目は床。中でも、世界最高難度の大技である「後方抱え込み2回宙返り2回ひねり」、通称「シリバス」を武器に、2013年の世界体操では、種目別床で4位に入賞します。この活躍で一躍メダル候補として注目を浴びた村上選手は、リオオリンピック・女子団体総合のエースとして他のメンバーを引っ張り、日本女子48年ぶりの4位入賞に貢献。昨年の世界体操・女子個人総合では予選を首位通過しながら、決勝では平均台の落下が響いてまたも4位。しかし2日後の種目別床では完璧な演技を披露し、見事に日本の女子選手では63年ぶりとなる金メダルを獲得しました。
来週のスポーツ伝説は……
4月16日(月) サッカー ラモン・ディアス選手
4月17日(火) サッカー アルシンド選手
4月18日(水) サッカー ピエール・リトバルスキー選手
4月19日(木) サッカー シジマール選手
4月20日(金) サッカー 井原正巳選手
お楽しみに!!