【バレーボール 三屋裕子選手】
三屋選手はバレーボールの名門・八王子実践高校を卒業後、実業団からの多数のオファーを蹴って筑波大学に進学。教師とオリンピック代表の両方を目指し、文武両道の生活を送った結果、みごとモスクワオリンピック代表に選ばれたのです。ところが、日本が大会をボイコット。モスクワオリンピックを最後に教師になる予定でしたが、実業団でもう少しバレーを続けようと決意し、バレーボールの名門・日立に入社します。
その後、三屋選手は1984年のロサンゼルスオリンピック代表に選ばれます。当時の全日本女子は、64年の東京オリンピックで“東洋の魔女”が金メダルを獲得して以来、オリンピックでは必ず決勝に進出。金メダルか銀メダルが当たり前の時代でした。にもかかわらず、ロサンゼルス大会では準決勝で中国に敗れ、ペルーとの3位決定戦に回ることになったのです。勝っても銅メダル止まり、という現実にひと晩中泣き続けた三屋選手。それでもなんとか重圧を乗り越え、銅メダルを掴みました。
【バレーボール 狩野舞子選手】
中学3年生で、2004年アテネオリンピックの女子バレーボール日本代表候補に選ばれた狩野選手。しかし体の成長が追い付かないスポーツ障害の腰痛に悩まされ、アテネ代表を逃し、08年の北京オリンピックは大会半年前に右アキレス腱を断裂して、またも代表入りを逃しました。再びプレーに輝きを取り戻した矢先の10年、今度は左アキレス腱を断裂。これを機に所属していた久光製薬を退団。リハビリに専念する一方で、余る時間で自分をしっかり見つめ直したことが大きな転機となります。
傷が癒えた10か月後、イタリアのクラブチームへ移籍し、翌年にはトルコでプレー。女子バレーボールの世界最高峰リーグへの武者修行は、技術的にも精神的にも磨かれ、日本代表でも自分の意見が堂々と言えるようになりました。12年、ロンドン大会で念願だったオリンピックに出場した狩野選手。狩野選手の地道な努力もあって、一つにまとまった日本代表は、ロンドンで28年ぶりの銅メダルを獲得しました。
【柔道 山口香選手】
“女三四郎”と呼ばれ、女子柔道のパイオニアとして、長年に渡って女子柔道界を牽引し続けてきた山口選手。柔道を始めたのは、小学1年生の時に観たテレビドラマ『姿三四郎』がきっかけでした。しかし70年代当時は、女子選手の存在が珍しかった時代。山口選手も町道場への入門を断られたといいます。それでもなんとか入門を認められると、週6日の猛練習を繰り返し、技を磨き続けました。
1978年、中学2年生の時に始まった全日本体重別選手権では、最年少だったにも関わらず、女子50キロ級で初代女王に輝き、以降、この大会で10連覇を達成。国内では絶対女王として君臨します。80年には、女子柔道の世界選手権が初めて開催され、山口選手は高校1年生で52キロ級に出場し、銀メダルを獲得。2年後の世界選手権でも銀メダル。84年、3度目の世界選手権でようやく悲願の金メダルを獲得。日本の女子選手が世界選手権を制したのは、これが初めての快挙でした。
【マラソン 有森裕子選手】
オリンピックの女子マラソンで2大会連続メダルを勝ち取った有森選手。その栄光の歴史とは裏腹に、競技人生では不遇の時代が長く続き、アクシデントや怪我にも苦しめられました。岡山で過ごした高校時代は、全国都道府県女子駅伝で3年連続で補欠。大学時代も目立った成績は残せず、卒業後は体育教師になる予定でした。ところが、大学最後の記録会で自身2番目の好タイムを出した有森選手。これで自らに可能性を感じ、無名選手がほとんど押しかけの形でリクルート社に連絡を入れました。その熱意が名伯楽・小出監督に認められ、名門陸上部への入部を許されたのです。
リクルート入社後、小出監督によってマラソンへの適性を見出された有森選手。91年の大阪国際女子マラソンで当時の日本最高記録を樹立し、この年の世界選手権で4位入賞。「行ってみせますバルセロナ、咲かせてみせます金の花」の名台詞とともにオリンピック代表入りを果たします。92年のバルセロナオリンピックでは、スタジアム入り口までデッドヒートを演じ、8秒差の2位でフィニッシュ。銀メダルを獲得して、一躍“時の人”となりました。4年後のアトランタオリンピックで再び代表入りを果たすと、有森選手は3位でゴール、銅メダルを獲得します。この時の言葉が、「自分で自分を褒めたい」。2大会連続メダルは、日本女子陸上史上初の快挙でした。
【競泳 青木まゆみ選手】
競泳種目のなかでも、パワーや体格勝負といわれる自由形とバタフライ。特に50mや100mという短距離で日本人が欧米選手に勝つのは至難の業とされてきました。そのバタフライで世界新記録を叩き出し、オリンピック金メダルを獲得したのが青木選手です。当時の日本人女性としては大柄な164㎝、63kgの体から繰り出されるパワフルな泳ぎで“女金時”のニックネームでも呼ばれました。
1970年、17歳の時に、バタフライ100mで日本新記録を叩き出し、初の日本一に君臨。一躍トップスイマーの仲間入りを果たすと、高校卒業後は“水泳浪人”の道を選択。72年のミュンヘンオリンピックに備え、さらなる練習漬けの日々を送ります。19歳で迎えたミュンヘン大会本番では、バタフライ100m決勝に残った8選手の内、6人が海外の選手。青木選手は前半に強い隣のコースのドイツ選手に食らい付くと、後半に爆発的なスパートを発揮して逆転。世界新記録での金メダル獲得となったのです。競泳の金ダルは、戦前のベルリン大会・平泳ぎの前畑秀子選手以来、36年ぶり。バタフライでの金メダルは、日本人選手では後にも先にも青木選手だけの大快挙です。
来週のスポーツ伝説は……
8/3(月) プロ野球 森下暢仁投手
8/4(火) プロ野球 岡野祐一郎投手
8/5(水) プロ野球 長谷川宙輝投手
8/6(木) プロ野球 津森宥紀投手
8/7(金) プロ野球 鈴木優投手
お楽しみに!!