【プロ野球 三浦大輔投手】
“ハマの番長”のニックネームで親しまれ、2000年代中盤から長らく低迷を続けたチームの大黒柱として、横浜DeNAベイスターズを牽引してきた三浦投手。引退会見では「勝てなくなったからです」と、きっぱりと辞める理由を語りました。9月29日に本拠地・横浜スタジアムで行われた現役最終登板試合では、この日出場したDeNAのすべての選手が、三浦選手の背番号である「18」をつけてプレー。三浦投手は6回と1/3を投げ、12安打10失点を喫しながらも、最後の最後まで全力プレーを披露しました。25年で通算172勝。日本プロ野球で現役最年長選手となった今シーズンは、24年連続勝利というプロ野球新記録こそならなかったものの、24年連続安打を記録。『プロ野球投手による安打最多連続年数』の世界記録としてギネスに認定されました。
入団以来、チーム名が横浜大洋ホエールズから、横浜ベイスターズへ、さらに横浜DeNAベイスターズへと変わっても、25年間、一度も移籍せずに“横浜愛”を貫き通した三浦投手。そんな三浦選手が変えなかったものがもう1つあります。それは、三浦投手の代名詞でもある髪型・リーゼント。小さな頃から歌手・矢沢永吉さんの熱心なファンで、リーゼントヘアにずっと憧れていました。でもリーゼントにした本当の理由は、「自分に気付いて欲しい」という、プロとしてのこだわり。入団時はドラフト6位だった三浦投手。何十人もピッチャーがいる中で試合で使ってもらうためには、常日頃から注目される必要がある、と考えたのです。やがてリーゼントヘアは三浦投手のトレードマークとなり、“ハマの番長”のニックネームも生まれ、球団史に残る人気選手へと昇りつめました。
【プロ野球 武田勝選手】
北海道日本ハムファイターズが、最大11.5ゲーム差をひっくり返す奇跡の逆転優勝に向け、福岡ソフトバンクホークスとの熾烈な首位争いを繰り広げていた9月23日。札幌ドームのファイターズ側ベンチに、「オレのために優勝しろ」とのメッセージが張り出されました。メッセージの主は、その日、今シーズン限りで現役引退を表明した武田投手です。プロ入り以降、ファイターズ一筋11年。2009年から、日本ハムの左腕投手として史上初となる4年連続2ケタ勝利を達成すると、13年には開幕投手も務め、06年から12年までの間、4度のリーグ優勝に貢献しました。
武田投手は体格に恵まれず、球速はプロとして遅い部類のピッチャーでした。にもかかわらず、11年もプレーすることができた原動力は、打者を手玉にとる制球力と、ピンチでも動じない強い精神力。そして、ボールの出どころが分かりづらい、野手のように小さなテークバック。「きれいなフォームがいいフォームではないし、飯が食えるフォームでもない」という信念のもと、苦労して身に付けたものでした。いずれは指導者になりたいという武田投手。様々な師匠に恵まれ、創意工夫によってプロで戦ってきた武田投手が後進に何を伝えてくれるのか、その日が楽しみに待たれます。
【プロ野球 廣瀬純選手】
10月1日、本拠地・マツダスタジアムで行われた広島の今シーズン最終戦。同僚の倉義和選手と共に現役最後の試合に臨んだのが、プロ16年目の廣瀬選手でした。外野手の廣瀬選手は2000年、広島を逆指名しドラフト2位で入団。しかし、金本選手・緒方選手・前田選手といった、層の厚い外野のレギュラー陣をなかなか超えられず、やっと出場機会が巡ってくると、今度は相次ぐ故障。初めて規定打席に達し、ようやくレギュラーとして活躍したのはプロ10年目のことでした。この年は打率も3割を超え、ゴールデングラブ賞を獲得。13年には15打席連続出塁という日本記録もマークしました。しかしその後は再びケガに泣かされ、去年は入団以来初めて一軍出場なしで終わります。今シーズンも出番がなく、引退試合となったシーズン最終戦に代打で出場。そのままライトの守備につき、大声援の中、16年の現役生活を終えました。
そんな廣瀬選手が考案して、その後チームに広まったのが、敬礼ポーズ。誰かがホームランを打ったり、ホームに生還すると、普通はベンチでチームメイトがハイタッチで迎えますが、廣瀬選手は右手を頭の所に掲げ、敬礼のポーズをとるのです。常に自分を磨くことを忘れず、チームを愛した廣瀬選手の姿勢は、この敬礼ポーズと共に、これからもカープナインの間で受け継がれていくに違いありません。
【プロ野球 栗原健太選手】
1999年にドラフト3位で広島カープに入団した栗原選手。持ち前のパワーを武器に活躍し、2008年にはFA移籍した新井貴浩選手の後を受け、四番も任されました。しかし、12年以降は故障に泣かされ、出場機会が激減。14・15年は一軍出場の機会がなく、自由契約となります。そこでオフにテストを受け、今シーズンから東北楽天ゴールデンイーグルスに移籍。復活を目指しましたが、結局一軍昇格の機会がないまま、10月1日に引退会見を行いました。
そんな栗原選手も、国際的な舞台で脚光を浴びたことがありました。09年の開幕前に行われた、第2回WBCワールド・ベースボール・クラシック。アメリカのサンディエゴで行われた決勝ラウンドの韓国戦で、当時横浜の村田修一選手が、試合中に右足に肉離れを発症したのです。急きょその代役の選手として原辰徳監督から呼ばれたのが、栗原選手でした。その日、栗原選手は香川でオープン戦に出場予定でしたが、キャンセルしてすぐに渡米。試合での結果は残せなかったものの、晴れてWBCの優勝メンバーに名を連ねることができたのです。
【プロ野球 福原忍投手】
10月1日、甲子園球場で行われた巨人戦に登板し、18年の現役生活に別れを告げたのが、阪神タイガーズの福原投手です。1998年、ドラフト3位で阪神に入団すると、プロ1年目は野村克也監督のもと、中継ぎ・抑えで活躍し、10勝9セーブを挙げました。その後、先発に回りローテーションの柱を務めましたが、プロ10年目の2008年、試合中に右手の人差し指を骨折。わずか8試合の登板に終わりました。翌09年も3勝10敗と大きく負け越し、10年はローテーションからも外れ、二軍での調整が続く辛い日々を送ります。そんなある日、福原投手は、同じく二軍で調整していた中日ドラゴンズ・山本昌投手の言葉にヒントを得て、投球フォームの修正に着手します。すると11年には中継ぎとして55試合に登板し、みごと復活。以後、去年まで5年連続で50試合以上に登板し、一昨年は38ホールド、去年は33ホールドを記録。2年連続で最優秀中継ぎ投手に輝いたのです。
リリーフの要としてチームに欠かせない存在となった福原投手でしたが、39歳で迎えた今シーズンは、投手陣のキャプテンを任されながらも4月中旬に二軍落ち。そこから昇格の声は掛からず、考えを重ねた末、今年限りでの引退を決めました。ピッチャーで18年間、タテ縞を着続けたのは、福原投手が最長記録。595試合に登板し、83勝104敗29セーブ118ホールドの成績は、先発にリリーフにフル回転した証しです。
来週のスポーツ伝説は……
11月 7日(月) WBC 王貞治元監督
11月 8日(火) WBC イチロー選手
11月 9日(水) WBC 井端弘和選手
11月10日(木) 大相撲 豪栄道豪太郎関
11月11日(金) 大相撲 北勝富士大輝関
お楽しみに!!