【野球 ソウルオリンピック】
1984年のロサンゼルスオリンピックで、公開競技として採用された野球。当時の日本代表は全員アマチュアの編成でしたが、アメリカとの決勝戦を制して金メダルを獲得しました。連覇を目指す88年のソウルオリンピックも、日本は大学・社会人の選手によるオールアマで出場。20人の選手たちは、いま見ると豪華な顔ぶれが並んでいます。ピッチャーでは、後にメジャーリーガーとなる野茂英雄投手、西武ライオンズで活躍したトリオ、潮崎哲也投手・渡辺智男投手・石井丈裕投手。そしてキャッチャーは、ヤクルトスワローズで正捕手として黄金時代を築き、兼任監督も務めた古田敦也選手。また野手では、広島カープでチームリーダーとして活躍、監督となった野村謙二郎選手。20人中13人がプロ入りし、野茂投手と古田選手は野球殿堂入りしています。まさに、当時のアマチュアの精鋭たちが集まった日本代表でした。
【プロ野球 20年前の日本シリーズ】
横浜DeNAベイスターズは、1960年、前身の大洋ホエールズ時代に名将・三原脩監督のもと、球団創設後初のリーグ制覇を果たし、日本シリーズも制して日本一に輝きました。以後、長く優勝から遠ざかっていましたが、98年、横浜ベイスターズ時代に38年ぶりのリーグ制覇を成し遂げたのが、権藤博監督です。前年の97年にバッテリーチーフコーチとして、チームの2位躍進に貢献。退任した大矢明彦監督の後を受けて、この年から指揮を執ることになった権藤監督は、選手の自主性に任せるという方針を貫きました。
この権藤采配を後押ししたのが、セ・リーグ一の破壊力を誇った強力打線です。98年のレギュラーシーズンは、リーグトップのチーム打率2割7分7厘を記録。石井琢朗選手・波留敏夫選手の一・二番コンビがチャンスを作り、勝負強いクリーンアップトリオの鈴木尚典選手、ボビー・ローズ選手、駒田徳広選手がホームに返す。さらに佐伯貴弘選手・谷繁元信選手・進藤達哉選手の下位打線がつないで上位打線に回す。切れ目がなく、一度打ち始めたら止まらないこの打線は“マシンガン打線”と呼ばれるようになり、他球団のピッチャーにとって大きな脅威となりました。
【スキージャンプ 長野オリンピック】
日本で開催された冬季オリンピックは、1972年の札幌大会と98年の長野大会。このうち札幌大会では、スキージャンプ70m級で日本勢が表彰台を独占し、“日の丸飛行隊”という言葉が流行語になりました。それから26年後。長野オリンピックに出場したスキージャンプの選手たちもまた日の丸飛行隊と呼ばれ大きな期待を集めましたが、「もう一つの日の丸飛行隊」の存在も忘れてはいけません。競技前に飛ぶ裏方のテストジャンパーのことです。
ジャンプ団体が行われた日、長野の空は朝から雪。ジャンパーにとっては非常に難しい環境でしたが、日本は1番手の岡部孝信選手、2番手の斉藤浩哉選手が共にK点の120mを超える大ジャンプを決め、トップに立ちます。ところが3番手の原田雅彦選手のジャンプは、わずか79.5m。実はこの時、吹雪で前がほとんど見えない状態で、風もジャンプには圧倒的に不利な追い風が強く吹いていたのです。4番手のエース・船木和喜選手も不利な条件の中なんとかK点近くまで飛んだものの、1本目を終えて日本は4位。ここで吹雪はさらに勢いを増し、2本目に入る時に競技は中断。4人の競技委員のうち、日本以外の3カ国の委員は競技中止を主張します。このまま中止になれば、その3カ国がメダルをつかむことになるからです。話し合いの結果、競技を続けるかどうかは25人のテストジャンパーによるジャンプを見て判断することになりました。前がほとんど見えず、転倒しても全くおかしくないほどの猛吹雪の中、25人のテストジャンパーたちは「自分たちが転倒をせずに飛んで安全だと証明すれば、競技は続行になる」と、意を決してジャンプを敢行。みごと、全員が転倒せずにジャンプを決めてみせたのです。こうして競技が再開されると、日本は一気に逆転。26年ぶりとなる日の丸飛行隊の金メダル伝説が完成したのです。
【サッカー 20年前のワールドカップ】
今年開催されるロシア大会で、6大会連続6回目のワールドカップ出場となるサッカー日本代表。しかし初出場までの道のりは、長く険しいものでした。日本が初めてワールドカップ予選に参加した1954年のスイス大会以降、約40年間は予選敗退の繰り返し。93年のアメリカ大会のアジア最終予選では、ワールドカップ出場の切符に手をかけながら、最終戦の後半アディショナルタイムの失点で逃してしまった、いわゆる“ドーハの悲劇”も経験しました。この悔しさをバネに、ついに97年のアジア最終予選の“ジョホールバルの歓喜”と呼ばれる劇的な勝利で、日本は悲願のワールドカップ初出場を果たしたのです。
迎えた、98年フランスワールドカップ。代表を率いたのは岡田武史監督。しかし初めてワールドカップのピッチに立った日本代表の選手たちはひとつひとつのプレーの精度、根本的なフィジカル面での世界との大きな差を痛感させられました。それから20年。今年6月に開催されるロシアワールドカップでは、日本サッカーがどのような成長を見せてくれるのか楽しみです。
【陸上男子 400mリレー】
リオ・オリンピックでは銀メダル。昨年の世界陸上でも銅メダル。日本が世界の大舞台で好成績を続けているのが、陸上男子400mリレーです。この流れが始まったのは、2008年の北京オリンピックでの銅メダル獲得でした。01年から、バトンパスの方法を世界では珍しいアンダーハンドパスに変更。トレーニングでも様々な工夫と試行錯誤を繰り返した結果、04年のアテネオリンピックで4位入賞。07年の世界陸上では、アジア新記録を出しての5位。メダルを狙える実力をつけて臨んだのが、北京オリンピックでした。
その北京では、メダル候補のアメリカとイギリスにミスが相次ぎ、共に予選敗退。日本にとって千載一遇のチャンスが訪れました。日本のメンバーは、第1走が塚原直貴選手、第2走が末続慎吾選手、第3走が高平慎士選手。そしてアンカーが朝原宣治選手。2番手でバトンを受けたアンカーの朝原選手はすぐにトリニダード・トバゴに抜かれたものの、最後までスピードは落ちず、ブラジルを0秒09抑える3位でフィニッシュ。陸上のトラック種目で日本がメダルを獲得するのは、80年ぶり2度目の快挙でした。更には金メダルを獲得したジャマイカにドーピング違反が見つかり、昨年、日本が銀メダルに繰り上がることが決定。改めて、日本のクリーンな走りが注目を浴びました。
来週のスポーツ伝説もお楽しみに!!