【大相撲 魁傑将晃関】
名門・花籠部屋が生んだ大関・魁傑関は、日本大学の柔道部出身。相撲とは縁がありませんでしたが、花籠親方に口説かれて大学1年の時に角界入りし、1966年9月の秋場所で初土俵を踏みました。幕内に上がるまで5年を要し、決して順調な出世ではありませんでしたが、74年11月に小結で臨んだ九州場所で、横綱・北の湖関との優勝決定戦を制し初優勝。翌75年3月の春場所で、ついに大関に昇進しました。
しかし75年9月の秋場所と九州場所で、2場所連続負け越し。大関を陥落してしまいます。陥落直後の場所で、10勝以上挙げれば大関に復帰できるという特別規定がありますが、魁傑関は更に負け越し、一時は平幕まで転落しました。それでも諦めず土俵に上がった魁傑関。体調が戻った76年の秋場所で14勝1敗で平幕優勝すると、その後も2場所続けて11勝を挙げ、77年3月の春場所より再び大関に返り咲きました。特別規定を使わずに大関に復帰した力士は、魁傑関ただ一人です。
【大相撲 高見山大五郎関】
本名は、ジェシー・クハウルア。高見山関は、“ジェシー”の愛称で相撲ファンの人気をさらいました。ハワイ・マウイ島出身で、1964年に19歳で来日して大相撲入り。高校までは、アメリカンフットボールをやっていましたが、大相撲のハワイ巡業の際、元横綱・前田山の高砂親方に才能を見出されたのです。最初の内は日本の環境や習慣に戸惑うことが多く、ちゃんこの味にもなかなかなじめなかったという高見山関。しかし徐々に日本の水に慣れ、厳しい稽古にも耐えぬいた結果、初土俵から3年後の1967年1月の初場所で勝ち越し、場所後に十両へ昇進。史上初の外国出身関取となったのです。
身長192㎝、体重200kgをを超える大きな体と、太く長いもみ上げに独特の声、ユニークなキャラクターでまたたく間に国民的な人気力士になった高見山関。72年7月の名古屋場所では、外国人力士として史上初の優勝を果たしました。一時は成績が伸びず、プロレスへの転向まで勧められたこともあったという高見山関ですが、それでもひたすら稽古に打ち込み、来日8年目でついに栄光をつかんだのです。この快挙は祖国・アメリカにも伝わり、当時のニクソン大統領から直々に祝電が届けられ、表彰式で読み上げられました。
【四代目朝潮太郎関】
新大関・朝乃山関の師匠・高砂親方は、現役時代は第4代朝潮太郎として活躍。“大ちゃん”のニックネームで人気を集め、昭和末期の相撲界を盛り上げました。大学時代は、2年連続で学生横綱とアマチュア横綱の二冠に輝きました。鳴り物入りで高砂部屋に入門すると、学生時代の実績を認められ、1978年3月の春場所で「幕下60枚目格・付け出し」でデビュー。幕下・十両をそれぞれ2場所ずつで通過し、期待に違わぬスピード出世で、この年11月の九州場所では早くも幕内力士になっていました。当時のシコ名は本名の「長岡」でしたが、79年3月の春場所から、師匠が現役時代に名乗っていた伝統のシコ名「朝汐」を襲名。しかしその後は、前頭で足踏みが続きます。
転機になったのは、デビュー3年目の80年3月の春場所。憧れの大横綱・北の湖関を相手にみごと金星を挙げ、殊勲賞を受賞。場所後に小結へと昇進し、大関への足掛かりをつかみました。悲願の大関昇進を決定づけたのは、83年3月の春場所。実に6度目の挑戦でした。念願の初優勝は、85年の春場所。実は現役最後の土俵となったのも89年3月の春場所で、今年3月に弟子の朝乃山関が大関昇進を決めたのも春場所。どこまでも春場所に縁のある朝潮関でした。
【大相撲 若嶋津六夫関】
1980年代、甘く精悍なマスクで女性ファンの人気を集めた大関・若嶋津関。鹿児島出身で、攻めの鋭さや厳しさから“南海の黒ヒョウ”と呼ばれました。高校相撲で鳴らした若嶋津関は、名門・二子山部屋に入門。1975年3月の春場所で初土俵を踏みました。入門から数年間は、なかなか体重が増えないのが悩みのタネでした。そんな時、元横綱・初代若乃花の二子山親方は二つのアドバイスを。一つは「余計なことは考えず、ただ思い切っていけばいい」。その甲斐あって、5年を要して体重は100kgの大台に乗り、十両に昇進。2年後には念願の120kg台に乗せ、83年1月の初場所でついに大関に昇進します。
目指すは、最高位の横綱。84年7月の名古屋場所で、若嶋津関は初日から連勝街道を突っ走り、全勝優勝。続く9月の秋場所はも11日目を終わって10勝1敗と好調でしたが、当時入幕2場所目で9勝2敗と旋風を巻き起こしていた、ハワイ出身の巨漢力士・小錦関に完敗。この黒星が尾を引いたのか、終盤戦で崩れて綱取りの夢は幻と消えました。しかしその後も、端正なルックスと勝負強さで相撲人気を牽引し続けた若嶋津関。現在は二所ノ関親方として、後進の育成に励んでいます。
【大相撲 北天佑勝彦関】
大関在位44場所を数え、“北海の白クマ”と呼ばれた北天佑関は、北海道出身で中学卒業後すぐに三保ケ関部屋に入門。入門から2年後の78年、幕下昇進を機に北天佑のシコ名をもらいました。目標は、自身が入門する2年前に横綱になっていた北の湖関。ある日、親方から北の湖関の専用練習台になるように命じられ、以降、横綱が引退するまでの5年間、ぶつかっては跳ねられる過酷な稽古を続けました。その甲斐あって、北天佑関は新入幕から3場所目、81年3月の春場所で横綱・若乃花関と対戦。初めての横綱戦でしたが、投げの打ち合いでいきなり初金星を挙げました。
これで自信をつけた北天佑関は、それから2年後、83年5月の夏場所で初優勝を飾り、場所後に大関昇進を果たしたのです。横綱昇進は叶いませんでしたが、大関を44場所も務めた北天佑関。90年に引退後は二十山親方として後進の育成に当たりましたが、2006年にガンのため45歳の若さで急逝。記憶に残る名大関でした。
来週のスポーツ伝説は……
5/11(月) プロ野球 正田耕三選手
5/12(火) プロ野球 篠塚利夫(和典)選手
5/13(水) プロ野球 石毛宏典選手
5/14(木) プロ野球 山倉和博選手
5/15(金) プロ野球 遠藤一彦投手
お楽しみに!!