スポーツ伝説

5月28日~6月1日の放送内容

【テニス マイケル・チャン選手】

 80年代後半から90年代を中心に活躍したチャン選手は、テニスの世界ではひときわ小さな身長175㎝という体格で4大大会を制し、世界ランク2位にまで駆け上がりました。台湾からの移民だった両親のもと、アメリカで生まれ育ったチャン選手。1988年に10代半ばでプロツアーデビューすると、翌89年に全仏オープン出場。強豪を倒して4回戦まで勝ち進み、王者イワン・レンドル選手と対戦します。
 レンドル選手といえば、当時の世界ランク1位で、全仏オープンでも3回優勝を経験しているトッププレーヤーでした。ここでテニス史に残る番狂わせを起して勝利すると、その後もトーナメントを勝ち進み、見事に全仏優勝を果たしたチャン選手。17歳3ヶ月での4大大会制覇は、男子では史上最年少記録。アジアにルーツを持つ男子選手の4大大会制覇も史上初めての快挙であり、その後、誰も実現できていない金字塔です。


   
【プロ野球 交流戦にまつわる伝説】

 昨年の交流戦期間中、かつてない不振に見舞われていたのが巨人でした。楽天・オリックス・西武に3カード連続で3連敗。交流戦前の連敗も含め、チームワースト記録となる13連敗を喫してしまったのです。交流戦最後のカードは、本拠地・東京ドームに千葉ロッテマリーンズを迎えての3連戦。巨人は2連勝しましたが、序盤からの連敗が響き、最終戦を前にして 通算成績は5勝12敗。この試合の勝敗次第では交流戦最下位という不名誉な事態になる可能性もありました。
 もうこれ以上新しいイニングに入らない延長12回。ロッテが2点を奪い、勝負ありと思われたその裏、ジャイアンツのバッターは亀井義行選手。ロッテ・大嶺祐太投手の失投を見逃さずバットを振り抜くと、打球はライトスタンドへ吸い込まれ、逆転のサヨナラスリーランに。この起死回生の一発で、交流戦最下位を逃れた巨人。今年の交流戦は果たしてどんな劇的なシーンが見られるのか、楽しみです。

   

【サッカー W杯代表メンバー発表】

 過去5回のFIFAワールドカップ代表発表の中で最も衝撃的だったのは、日本が初出場した1998年フランス大会のメンバー発表。当時の最終登録メンバーは22人でしたが、岡田武史監督はスイスで行った直前合宿に25人の代表候補を連れて行き、大会直前に報道陣の前で、外れるメンバーの名前を自ら発表しました。そこで「外れるのはカズ、三浦カズ」と名前を読み上げられたのが、現在、横浜FCでプレーする三浦知良選手です。それまで日本代表の象徴的存在だった“キング・カズ”こと三浦選手を大会直前に外したことについては賛否両論を巻き起こしましたが、ワールドカップ代表選考の厳しさを物語るエピソードとなりました。
 実力を誰からも認められながら、代表から漏れた選手もいます。2002年の日韓共催大会の時、フィリップ・トルシエ監督の目指すチームにフィットしないということで選ばれなかった中村俊輔選手です。最終発表で落選を聞き、報道陣の前で涙をこらえながらインタビューに答えていた中村選手。この悔しさをバネに、横浜F・マリノスからイタリア・レッジーナに移籍。4年後のドイツ大会でみごと代表の座をつかみました。
 
  
  
【NBA オスカー・ロバートソン選手】
 
 1960年代から70年代前半にかけて活躍し、“ザ・ビッグ・オー”と呼ばれたロバートソン選手がここ数年、改めてクローズアップされています。その理由は、昨シーズンと今シーズン、オクラホマシティ・サンダーのラッセル・ウェストブルック選手が史上初の「2シーズン連続平均トリプル・ダブル」という偉業を達成したからです。トリプル・ダブルとは、得点・リバウンド・アシスト・ブロックショット・スティールの個人5部門のうち、3つの部門で1試合2桁の数字をマークすること。それをシーズン通して記録できたのは過去にたったひとり、ロバートソン選手だけだったのです。
 実はこの「トリプル・ダブル」が、公式記録として見直されたのは80年代になってから。ロバートソン選手はのちに「そんなに凄いことなら毎年でもやっていた」と語っていますが、それが決してジョークに聞こえないからこそ、今なお“NBA史上最高の選手”として語り継がれているのです。


   
【NBA ビル・ラッセル選手】
 
 スター選手であっても、現役時代に一度でも経験できるかどうかというNBAチャンピオンの座。この頂に史上最多の11度も輝いたのが、“史上最強のディフェンダー”と呼ばれ、ボストン・セルティックスで活躍したラッセル選手です。身長208㎝の巨体を活かした守備力にすぐれたセンターとして、学生時代から評価の高かったラッセル選手。大学では全米2連覇を経験し、1956年のメルボルンオリンピックにはアメリカ代表として金メダル獲得に貢献。オリンピック終了後、鳴り物入りでNBAデビューを果たしました。しかし当時はまだ、人種差別が色濃く残っていた時代。黒人のラッセル選手は心ない差別とも戦いながら、そのプレーで確固たる地位を築き上げていったのです。
 ラッセル選手の活躍で、セルティックスは56-57年シーズンに球団初のNBA制覇を達成。ラッセル選手は、大学時代の全米優勝・オリンピック金メダル・NBA優勝という3つの栄冠を手にした、史上初の選手となりました。

  
    
来週のスポーツ伝説もお楽しみに!!
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