スポーツ伝説

7月31日~8月4日の放送内容

【陸上 サニブラウン・ハキーム選手】

 サニブラウン選手は、6月に行われた日本陸上選手権で、100m・200mの2冠を達成しました。ガーナ人の父と日本人の母を両親に持ち、2015年7月、高校2年時に出場した陸上世界ユース陸上選手権で100m・200mの2冠を達成。しかも200mは、かつてボルト選手がマークした大会記録を塗り替える、20秒34という好記録でした。さらに8月の世界陸上北京大会に200mで出場。史上最年少の16歳5ヶ月で準決勝進出を果たしたのです。
 しかし翌年、リオオリンピックへの代表選考も兼ねた日本選手権直前に、左太ももの肉離れを起こしてしまいます。オリンピックの代表争いにすら加われず、無念を噛み締めたサニブラウン選手。このケガをきっかけに、普段の練習メニューからより能動的に取り組むようになりました。更に今年の春には、高校卒業と同時に海外に活動の拠点を移し、世界のトップ選手も指導を受けるコーチのもとで、フォームの改善と筋力強化にも着手。上半身の筋力が増えたことでスタート時の体のブレがなくなり、前半からスピードに乗れるようになりました。こうして掴んだ、世界陸上代表の座。サニブラウン選手の世界陸上での目標は、100mと200m両種目の決勝で、世界最速の男・ボルト選手と一緒に走ることです。
  
   
 
【陸上 ケンブリッジ飛鳥選手】

 日本陸上界にとって長年の悲願といえば、100mで9秒台をマークする選手が現れること。今回の世界陸上で、その10秒の壁を突破してくれそうな選手として俄然注目を集めているのが、今年4月に追い風参考ながらも日本人で2人目となる9秒台を記録した、ケンブリッジ選手です。現在24歳、大学時代はケガもあって伸び悩んだ時期もありましたが、社会人1年目の去年は自己ベストとなる10秒10をマーク。日本選手権で初優勝を果たし、リオ オリンピック代表に選ばれました。日本人の母と、ジャマイカ人の父を持つケンブリッジ選手。ジャマイカといえば、世界記録保持者ウサイン・ボルト選手を生んだスプリント王国です。そのボルト選手と並走したのが、オリンピックでの男子4×100mリレー。日本のアンカーを担当したケンブリッジ選手は、ボルト選手に食らいつく走りで見事、銀メダルを獲得しました。
 ただ、個人種目である男子100mでは、目標としていた決勝進出は叶わず。2020年の東京オリンピックでこそ、その夢を叶えるため……ケンブリッジ選手が選んだのはプロ転向。求めたのは、安定よりもハングリー精神でした。プロ転向をきっかけに活動の拠点を海外に移し、さまざまなレースに出場。世界トップレベルの中でもまれたケンブリッジ選手は、同時に肉体改造にも着手。より力強い走りができるようになったのです。
  

   
【陸上 伊東浩司選手】
 
 1998年12月にタイのバンコクで行われた陸上のアジア大会、男子100m準決勝で、フィニッシュラインを先頭で駆け抜けた伊東選手。直後に電光掲示板が刻んだ数字は、9秒99。伊東選手は大きく飛び跳ね、ガッツポーズを繰り返しました。それまで、アジア出身で100m10秒の壁を突破した選手は誰もいなかったからです。ところが程なくして、公式記録の訂正が発表され、伊東選手のタイムは10秒00に変更。会場の大歓声は大きなため息へと変わりました。
 その後、追い風参考で9秒台をマークした日本人選手はいたものの、正式に“10秒の壁”を誰も突破できないまま、去年の暮れで18年が経過。伊東選手は引退後も「日本記録ホルダー」と呼ばれ続けることになりました。

   
    
【陸上 松田瑞生選手】

 今年6月、大阪のヤンマースタジアム長居で行われた、第101回 陸上日本選手権。この大会は世界陸上の代表選考会も兼ねており、女子1万mで日本選手権初優勝を飾り、ロンドン行きの切符を手にしたのは、地元・大阪生まれの22歳、松田選手でした。
 去年も、女子1万mでリオ オリンピック出場を目指していましたが、日本選手権で4位に終わり、あと一歩のところで代表の座を逃してした松田選手。今回は世界選手権を逆算して練習を積み、最後は得意のラストスパートで初優勝。31分39秒41のタイムは、世界陸上の参加標準記録を上回り、みごと出場権を勝ち取ったのです。
   
   

【高校野球と甲子園球場】

 高校野球でおなじみのシーンといえば、試合終了後、負けた球児たちが甲子園の土を集め、持ち帰る光景。これを最初に行った人物には 諸説ありますが、有力な人物として二人の球児の名が語り継がれています。まず一人が、のちにプロ野球入りし、巨人軍で活躍した、熊本工業時代の川上哲治選手です。1937年の甲子園大会に出場した熊本工業は、エース川上選手の活躍もあって決勝戦に進出。しかし、決勝では中京商業に1対3で敗れ、準優勝に終わります。試合後、川上選手は記念として甲子園の土を袋に入れて持ち帰り、母校のグラウンドにまいた、とされています。
 もう一人、甲子園の土を持ち帰った第1号選手として語り継がれているのが、“戦後最初の甲子園スター”と呼ばれる小倉高校の福嶋一雄投手です。1947年・48年と、夏の甲子園で連覇を達成した小倉高校で活躍した福嶋投手。特に48年の大会ではエースとして甲子園のマウンドを踏み、1回戦から決勝戦まで5試合、合計45イニングをすべて無失点に抑えるという圧巻の投球をみせました。翌49年、最上級生となった福嶋投手は、史上2校目となる大会3連覇を目指し、甲子園に帰ってきましたが、ケガの影響もあって準々決勝で敗退。そんな福嶋投手に後日、大会副審判長から速達が届きます。その内容は、君のポケットには大切なものが入っている』というもの。慌ててユニホームを調べたところ、ポケットから出てきたのが甲子園の土でした。この速達をキッカケにして、福嶋投手が「甲子園の土を最初に持ち帰った」とする説が生まれたのです。

      
   
来週のスポーツ伝説は……

  8月 7日(月) 棒高跳び セルゲイ・ブブカ選手
  8月 8日(火) 高校野球 蔦文也監督
  8月 9日(水) 高校野球 木内幸男監督
  8月10日(木) 高校野球 尾藤公監督
  8月11日(金) 高校野球 辻内崇伸投手
            
                       お楽しみに!!
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