スポーツ伝説

10月12日~16日の放送内容

【視覚障害者柔道 廣瀬順子選手】

 通常の柔道と違い、互いに組んだ状態から始まる視覚障害者柔道は体格が大きくパワーがある外国勢が有利と言われています。そんなハンディをものともせず、2016年のリオパラリンピック・女子57キロ級で、日本の女子選手として初の銅メダルを獲得したのが廣瀬選手です。実はこのリオ大会には、順子選手の夫・廣瀬悠選手も90キロ級に出場。夫婦がそろって、同じ競技でパラリンピックに出場するのは、日本では史上初のことでした。
 身長158㎝と決して大柄でない順子選手を銅メダルに押し上げた要因は、苦手としていた寝技技術の向上と、外国人選手対策でした。実は夫の悠選手は、ブラジリアン柔術の黒帯を持つ実力者。その柔術の技を柔道の寝技に応用。さらに重量級の悠選手と練習することで、大柄でパワーのある外国人選手を想定した練習ができたのです。リオパラリンピック以前は、国際大会で一度も表彰台の経験がなかった順子選手でしたが、リオ本番では夫直伝の寝技で快進撃を見せます。まさに、夫婦で勝ち取った銅メダルだったのです。

   

【視覚障害者柔道 正木健人選手】

 正木選手は生まれつき視覚に障がいがあり、弱視の状態で育ちました。シドニーオリンピック銀メダリストで、OBの篠原信一さんに憧れ、中学1年生から健常者に交じって柔道を始めます。高校は柔道の名門、神戸の育英高校に進学。天理大学進学後も健常者と柔道を続けていましたが、弱視が進んだこともあり、2011年に鍼灸師の資格を取るために大学を中退。盲学校へ入り直したのをきっかけに視覚障害者柔道へ転向すると、トルコで行われた世界選手権で初出場ながらみごと優勝に輝き、一躍世界のトップに躍り出たのです。
 12年のロンドン大会で、初めてパラリンピックの舞台に立った正木選手。初戦でいきなりアテネ・北京のチャンピオンで、パラリンピック3連覇を目指すアゼルバイジャンの選手に当たってしまう不運に見舞われつつも、強い気持ちで見事勝利。これで流れに乗れにのって決勝に進出すると、中国の選手に開始53秒で一本勝ち。日本の柔道チームに、ロンドンパラリンピックで初の金メダルをもたらすと同時に、日本の金メダル第1号ともなったのです。



【パラ競泳 秋山里奈選手】

 生まれて間もなく網膜剥離と診断され、全盲のまま育った秋山選手は、3歳から水泳を始め、中学2年生で障害者の水泳大会に初めて参加。パラ競泳界のレジェンド・河合純一さんの本にも刺激を受け、自然とパラリンピックを目指すようになりました。
 2004年、16歳でアテネパラリンピックに出場。初の大舞台ながら、得意の100m背泳ぎでいきなり銀メダルを獲得する快挙を成し遂げます。07年には、100m背泳ぎで当時の世界新記録を樹立。ところがその矢先、翌年の北京大会で全盲クラスの背泳ぎが突然、実施種目から外されてしまいました。得意種目を奪われる形になった秋山選手は、50m自由形で決勝に進出しましたが、最下位の8位で終了。不完全燃焼のまま、2度目のパラリンピックを終えました。しかし12年のロンドンパラリンピックで全盲クラスの背泳ぎが復活すると、秋山選手はこの得意種目でみごと金メダルをつかみ取りました。



【パラ競泳 成田真由美選手】
 
 中学1年生の時に横断性脊髄炎を発症。中学3年生の頃から車いす生活となった、成田選手。もともと車いすバスケットボールなどをやっていましたが、水泳は苦手で23歳まで泳げませんでした。それがある日、通っていたスポーツセンターで障害者の水泳大会に誘われたのをきっかけに猛練習を積み、試合に出場。大会の帰り道で追突事故に遭い、左手にまひが残る後遺症を負ってしまいましたが、それでも水泳への熱は冷めませんでした。
 持ち前の運動センスと負けん気を武器に、やがて日本代表となった成田選手は、1996年のアトランタ大会から2008年の北京大会まで、4大会連続でパラリンピックに出場し金メダル15個を含む、通算20個のメダルを獲得。“水の女王”の名前をほしいままにしたのです。しかし北京大会では、クラス変更の影響もあり、メダルを1個も獲得できずに終わります。その後は第一線から退た成田選手でしたが、障害者スポーツやパラリンピックの注目度の低さに寂しさを感じ、現役復帰を決意。16年のリオパラリンピックに46歳で出場すると、50m自由形を39秒23のタイムで泳ぎ5位入賞。s5クラスの日本記録を更新したのです。



【パラ競泳 河合純一選手】 
 
 生まれた時から左目の視力がなく、右目もほとんど見えなかった河合選手。中学3年生の時にわずかに見えていた右目も失明してしまいますが、そんな大変な状況でも、5歳から始めた水泳で世界一になる夢と、学校の先生になる夢は決して諦めませんでした。高校生の時にパラリンピックを目指すと決心すると、夢を叶えるため、毎日1万メートルを泳ぐなどハードな練習に取り組んだ河合選手。17歳にしてバルセロナパラリンピックの競泳代表に選ばれ、銀2つ・銅3つ、合わせて5つのメダルを獲得します。バルセロナの2年後には、早稲田大学へ進学。勉強しながら水泳部でもトレーニングを重ね、1996年のアトランタパラリンピックで、50mと100mの自由形で金メダルを獲得したのです。
 大学卒業後は、日本で初めて全盲の教員として母校の中学校に赴任。教員になった後もパラスイマーとして第一線で活躍を続け、2000年のシドニー大会、04年のアテネ大会と、50m自由形で3連覇の快挙を達成。12年のロンドン大会まで、6大会連続でパラリンピックに出場、5つの金メダルを含む、通算21個のメダルを獲得したのです。その偉大な功績が認められ、16年には日本人初のパラリンピック殿堂入りも果たしています。


来週のスポーツ伝説は……

10/19(月) 野球 早川隆久投手
10/20(火) 野球 中森俊介投手
10/21(水) 野球 小深田大地選手
10/22(木) 野球 西川僚祐選手
10/23(金) 野球 井上朋也選手
                       
お楽しみに!!
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