スポーツ伝説

2月24日~28日の放送内容

【車いすバスケット 香西宏昭選手】

 パラスポーツの花形競技・車いすバスケットボール。その日本代表エースの一人が、香西選手です。生まれつき両ひざから下がない状態の香西選手は、12歳の時に体験会に参加したことをきっかけに車いすバスケを始め、地元の強豪チーム「千葉ホークス」に参加します。ここで、香西選手に車いすバスケの基本をみっちりと教えてくれたのが、チームの大先輩・及川晋平選手でした。
 及川選手から送られてくる練習メニューを毎日こなす内に、どんどん腕を上げていった香西選手。高校1年でジュニア日本代表に選ばれ、卒業後は世界一の名指導者マイク・フログリーコーチに誘われて本場・アメリカのイリノイ大学に留学。フログリーコーチの指導のもと、大いに才能を伸ばした香西選手は、キャプテンとしてチームを引っ張り、2012年・13年と2年連続で全米大学リーグのMVPに輝きました。13年に大学を卒業すると、ドイツの車いすバスケットボールチームに入団。世界でもほんの一握りの選手しかなれない、プロ選手契約を結びます。現在、日本代表の指揮を執るのは、かつての恩師・及川ヘッドコーチ。自国開催の東京パラリンピックでは、恩師と共に金メダルを目指すします。



【車いすバスケット 藤本怜央選手】

 2004年、アテネ大会でパラリンピックに初めて出場。以降、北京・ロンドン・リオと4大会連続で出場を果たした、車いすバスケットボール日本代表の藤本選手。現在も代表の大黒柱で、東京にも出場すれば5度目のパラリンピックとなります。藤本選手は、小学3年生の時に交通事故で右足の膝下を失い、中学・高校時代は義足を履いてバスケットボールをしていました。高校3年生の時、初めて見た車いすバスケに魅了され、宮城県の東北福祉大学に進学と同時に車いすバスケチーム「宮城MAX」に入団。日本代表にも選ばれ、以降は日本のエースとして活躍してきました。
 3度目のパラリンピックとなった12年のロンドン大会後、 14年9月からは、ドイツリーグへ武者修行の旅へ。翌年の5月、シーズンを終えて帰国した藤本選手は、見違えるように体が絞られ、より精悍に変身していました。日本代表のキャプテンとして臨んだ、16年のリオパラリンピック。日本は9位に終わり、メダルには手が届きませんでしたが、試合後の充実感は4年前のロンドンと比べものにならなかったそうです。それから4年間、さらに自分を追い込み続けた藤本選手。満を持して、東京では一番いい色のメダルを獲りに行きます。

 

【車いすラグビー 池崎大輔選手】

 車いす同士の激しい衝突と、スピード感が魅力の車いすラグビー。東京パラリンピックでは日本の金メダルが期待されています。その日本代表で、日本のスピードスターとして世界的な知名度を誇るのが、エースの池崎選手です。池崎選手は、6歳の時に手足の筋力が次第に衰える難病シャルコー・マリー・トゥース病を発症し、車いす生活となりました。高校の時に車いすバスケットボールに出会い、15年間、選手としてプレー。ところが30歳の時、腕の筋力の低下によってバスケットを続けることができなくなってしまいます。そんな時に出会ったのが、車いすラグビー。「これで世界に挑戦しよう」と決意を固めると、競技転向からわずか2年で日本代表入りを果たしました。
 車いすバスケで培った車いすの操縦技術と世界でも屈指のスピードを武器に、“日本のエース”と呼ばれるようになった池崎選手。初めて出場した12年のロンドンパラリンピックはメダルにあと一歩届かず、4位に終わりましたが、4年後のリオ大会ではチームの柱として活躍。銅メダル獲得に大きく貢献しました。18年からは毎年、車いすラグビーの強豪国・アメリカへ武者修行に出かけ、トッププレーヤーが集結する全米選手権にも出場。18年・19年と2年連続でMVPに輝いています。代表戦では、18年の世界選手権で、リオパラリンピック金メダルにして世界ランク1位の強豪国オーストラリアを決勝で破り、見事初優勝。池崎選手は大会MVPに選ばれ、目標だった世界の頂点に立ったのです。



【ブラインドサッカー 川村怜選手】
 
 フットサルと同じ広さのコートで、5対5で戦うブラインドサッカー。視覚に障害のあるフィールドプレーヤー4選手がアイマスクを着け、ボールが転がると鳴る「音」と、味方からの声の指示を頼りに戦います。選手たちはこの2つの情報でイメージを膨らませ、まるで見えているかのようにドリブルやパスを繋げ、ゴールを決めるところは驚異的。世界的にも人気のパラスポーツです。日本代表は、開催国枠で出場する東京大会がパラリンピック初出場。初陣のチームを引っ張るのが、キャプテンの川村選手です。
 5歳の時、ぶどう膜炎を患った影響で視力が急激に低下。それでも大好きなサッカーを続けたいと、小学生の時は弱視ながらも少年サッカーチームに参加していました。しかし中学生になると、視野が狭いためにヘディングなどが難しくなり、サッカーを断念。それからは陸上競技に励んでいましたが、大学でブラインドサッカーに出会い、再びサッカーの世界に戻ってきたのです。世界一のストライカーを目指すキャプテンが、日本のブラインドサッカーをこれからも引っ張り、盛り上げてくれるに違いありません。


 
【パラ陸上 中西麻耶選手】
 
 「世界新記録で金メダルを取る。それが目標です!」いよいよ半年後に迫った東京パラリンピックに向けてそう高らかに宣言したのは、女子走り幅跳び日本代表に内定している中西選手です。21歳の時、仕事中の事故で右足の膝から下を切断。義足を付けて陸上競技を始めます。すると競技歴わずか1年ほどで、100mと200m走の日本記録を樹立。その半年後の2008年、北京パラリンピックでは初出場でいきなり100m6位・200m4位と、共に入賞を果たし注目を浴びました。
 一方、走り幅跳びでもその素質が開花。ロンドン大会ではファイナリストに名を連ねます。16年、31歳の時に、走り幅跳びで5m51㎝の日本新記録とアジア記録を樹立した中西選手。勢いを駆って臨んだリオパラリンピックは4位と、メダルにあと一歩と迫りました。4度目のパラリンピックとなる東京大会では、悲願のメダル獲得を目指します。


        
来週のスポーツ伝説もお楽しみに!!
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