スポーツ伝説

5月25日~29日の放送内容

【プロ野球 彦野利勝選手】

 彦野選手は、思いきりのいいバッティングとガッツ溢れるプレーのリードオフマン。1982年のドラフトで地元球団の中日から5位指名を受け入団。当初はなかなか芽が出ず、二軍暮らしが続きましたが、プロ5年目の87年に星野仙一新監督に見出され、開幕一軍に抜擢されます。この年、故障で出遅れた平野謙選手に代わってセンターに入り、強肩・強打を武器に101試合に出場。ホームランは11本を放ちました。平野選手は、オフにトレードで西武へ移籍。これでポジションが空き、翌88年、彦野選手は入団6年目にしてついにレギュラーの座をつかんだのです。
 その88年、中日は開幕ダッシュに失敗し、4月は最下位という最悪のスタートを切りました。そんな中、チームを盛り上げたのが、相手のエース級ピッチャーを打ち崩す長打力のある1番打者・彦野選手でした。チームも徐々に調子を取り戻し、夏から首位に立つと独走。彦野選手はホームラン15本を放ち、6年ぶりのリーグ優勝に貢献します。続く89年もホームラン26本と、さらに長打力を発揮した彦野選手。98年に引退するまで16年間、中日ひと筋で常に気迫溢れるプレーを見せ、ファンにも愛された選手でした。
 


【プロ野球 栗山英樹選手】

 栗山選手は高校時代、キャプテンとエースを務め、3年春の都大会でベスト4に進出。卒業後は教師を目指して東京学芸大学へ進学しました。学芸大の野球部は、あくまで同好会のレベルでしたが、栗山選手の活躍で東京新大学リーグで2度の優勝を飾り、大学選手権にも出場します。その大学で教員免許を取得しますが、プロに挑戦したいという気持ちが捨てきれず、西武と大洋の入団テストを受験。いずれも不合格になりましたが、三度目の正直でヤクルトスワローズのテストを受けたところ、ついに合格。ドラフト外でプロ入りした栗山選手は、1年目の1984年、ついに夢の一軍デビューを果たしたのです。
 プロの壁は厚く、最初は周りの選手との実力差に茫然としたという栗山選手ですが、猛特訓を重ねて86年から一軍に定着すると、リードオフマンとしてヤクルト打線を牽引。守備でも、横っ飛びのスーパーキャッチも披露しました。プロ6年目の89年にはセンターでレギュラーの座をつかみ、125試合に出場。初めて規定打席に達し、初のゴールデングラブ賞を受賞しますが、メニエール病の再発や故障もあり、翌90年に29歳の若さで現役を引退。日本ハムの監督に就任して、今年で9年目になります。



【プロ野球 藤井康雄選手】

 現在のオリックス・バファローズの前身に当たるチームが、オリックス・ブルーウェーブ。1995年・96年とパ・リーグ連覇を達成し、そのブルーウェーブで主砲として活躍したのが藤井選手です。まだ球団名が「阪急ブレーブス」だった86年、ドラフト4位で指名され入団。プロ2年目の88年にはホームラン20本を放ちレギュラーに定着しますが、このシーズンを最後に阪急は球団を売却します。球団名が「オリックス」に変わった89年、藤井選手はホームラン30本。翌90年も37本を放ち、パ・リーグを代表する長距離砲に成長しました。91年から球団の愛称が「ブルーウェーブ」に変わり、いつしか“ミスター・ブルーウェーブ”と呼ばれるようになった藤井選手。その魅力は、圧倒的な打球の飛距離と、満塁ホームランの多さでした。
 実は、藤井選手が16年間で放ったホームラン・282本のうち14本が満塁ホームラン。通算868本のホームラン世界記録を持つ巨人の王貞治選手が放った満塁ホームランが15本ですから、藤井選手がいかに満塁に強かったかが分かります。2001年には、1シーズンに3本もの代打満塁ホームランをマーク。これはプロ野球記録です。しかもこの年に打った通算14本目・自身最後の満塁アーチは、3点ビハインドの9回、ツーアウトという場面で飛び出した劇的な「代打・逆転・サヨナラ・満塁ホームラン」でした。


 
【プロ野球 岡崎郁選手】
 
 岡崎選手は大分商業高校3年生の時、ショートとピッチャーを兼任して春夏連続で甲子園に出場。卒業後は大学に進むつもりでしたが、1979年のドラフトで巨人が3位で強行指名します。そこまで熱烈なラブコールを送ったのは、当時の指揮官・長嶋茂雄監督でした。天性の野球センスをミスターに惚れられて、入団を決めた岡崎選手。選手層が厚いジャイアンツでは二軍暮らしが続きましたが、やっと一軍定着が見えてきた5年目の84年、肋膜炎を患い任意引退。支配下登録を外れ、療養生活を送ることになりました。
 病気を克服し、85年から再び巨人に復帰した岡崎選手。87年には、ショートでレギュラーに定着しリーグ優勝に貢献。サードにコンバートされた89年は、ホームランを12本放ち、近鉄との日本シリーズでは優秀選手に選ばれ、日本一の立役者となりました。翌90年には、自身初のゴールデングラブ賞を受賞しリーグ連覇。日本シリーズでは西武に敗れたものの、今度は敢闘賞を受賞。大一番での勝負強さも光りました。


 
【プロ野球 片平晋作選手】
 
 王選手が始めた“一本足打法”。それを完全に自分のものにした数少ない一人が、片平選手です。南海・西武・横浜大洋の3球団で活躍。身長184㎝のスラリとした体型から“ダンディ”の愛称でも親しまれました。1971年のドラフトで4位指名を受け、東京農業大学から南海ホークスに入団。プロ6年目の77年、バセドウ病を発症して一時戦列を離れますが、病気を克服した79年、一塁手としてついにレギュラーに定着しました。高校時代から追求を始めた“一本足打法”が完全に身に付いたのもこの年。初めて規定打席に達して打率3割2分9厘の高打率をマーク。翌80年には自己最多の21本塁打を放ち、チームに欠かせない存在となりました。
 プロ11年目の82年には、トレードで西武ライオンズに移籍。西武球団として初めてのリーグ優勝に貢献します。また中日との日本シリーズでは、王手をかけた第6戦で決勝ソロホームランを放ち、チームを日本一に導きました。そして85年の開幕戦でホームランを放つと、翌86年の開幕戦でもホームラン。さらに横浜大洋ホエールズに移籍した87年にも、開幕戦で決勝ツーランを放ち、セ・パ両リーグにまたがって「3年連続・開幕戦ホームラン」を達成しています。。


        
来週のスポーツ伝説は……

6/1(月) プロ野球 関根潤三選手
6/2(火) サッカー マルコ・ファン・バステン選手
6/3(水) サッカー フランコ・バレージ選手 
6/4(木) サッカー ローター・マテウス選手
6/5(金) サッカー アンドリー・シェフチェンコ選手 
                       
お楽しみに!!
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