【プロ野球と沖縄】
沖縄で初のプロ野球公式戦が開催されたのは、本土復帰より11年早い1961年のこと。5月20日と21日に行われた、西鉄ライオンズ 対 東映フライヤーズの試合でした。このとき沖縄はまだアメリカの占領下にあり、選手たちはパスポートを持って沖縄に渡りました。
この試合、ネット裏特別席の価格は4ドル。1ドル=360円の時代だったことから、日本円で1440円に相当します。当時、沖縄の平均的な1ヶ月の家賃は3000円。それでもチケットはすべて完売し、スタジアムにつめかけたのは超満員の1万4千人。球場に入りきれなかったファンが、外野席後方にそびえ立つ山に登って観戦したといいます。
【プロ野球と青森】
前回、青森県でプロ野球の公式戦が行われたのは、1988年のこと。今月28日の楽天 対 オリックスの試合は、実に29年ぶりの公式戦開催となります。この青森開催をずっと切望していたのが、東北楽天ゴールデンイーグルスです。2004年オフのチーム発足時に、球団名に“東北”とつけた時から、東北6県での公式戦開催が悲願だった楽天。昨年まで、青森以外の5県では公式戦を開催していましたが、青森県にはプロ野球の観衆を収容できる球場がなく、これまで実現には至りませんでした。しかし今月、弘前市にある「はるか夢球場」の改装工事が終了。収容人数が6700人から1万4800人へと大幅に増えたことで、遂に悲願の青森開催が実現可能になったのです。
長らくプロ野球公式戦が行われなかった青森県ですが、歴史を振り返れば、実はプロ野球初の完全試合という大記録が生まれた場所でもありました。時はくしくも、ちょうど67年前の1950年6月28日。当時完成したばかりの青森市営球場で行なわれた、巨人 対 西日本戦で、巨人の大エース・藤本英雄投手が、史上初のパーフェクトピッチングを記録し、4対0で勝利を収めたのです。藤本投手は日本で初めてスライダーを投げたとされる人物で、通算200勝87敗。通算防御率1.90は、2000投球回以上の投手のなかでは、歴代1位を誇る記録です。この試合で、藤本投手が投じたのはわずか92球。試合時間1時間19分という短時間で生まれた大記録でした。
【プロ野球 背番号列伝4番】
広島カープで、1971年から82年まで12年間、背番号4をつけていた水谷実雄選手。宮崎商業高校から66年、ドラフト4位でピッチャーとして入団。78年には打率3割4分8厘の高打率をマークし、首位打者のタイトルを獲得しました。水谷選手といえば、カープファンの記憶に刻まれているのは、75年10月15日、広島が初のリーグ優勝を決めた瞬間。後楽園球場で行われた巨人戦で、ウイニングボールをつかんだのは、レフトを守っていた水谷選手でした。このほか、2年連続で近鉄バファローズと戦った日本シリーズでも、79年は2ホーマー、80年は3ホーマーを放ち、2年連続日本一に貢献しています。その後、阪急ブレーブスにトレードされ、ここでも背番号4をつけてプレー。移籍初年度の83年は、打点王に輝きました。
水谷選手の後、85年から引退した98年まで、14年間にわたりカープの背番号4をつけた日本人野手は、正田耕三選手。社会人野球を経て、84年にドラフト2位で広島に入団した正田選手は、86年にはリーグ優勝を経験し、87年・88年には2年連続で首位打者に。89年には盗塁王も獲得するなど、走攻守揃った名プレーヤーとして活躍しました。
正田選手と同じ名前で背番号4といえば、“ナニワの春団治”こと、阪神タイガースの川藤幸三選手。代打男として人気のあった川藤選手は、プロ3年目の70年から引退を決めた86年までの19年間、阪神で背番号4を背負い続けました。
川藤選手の引退後、2002年から3シーズンだけ4番をつけたのが、それまでエースナンバーの18番をつけていた藪恵壹投手。ピッチャーが背番号4をつけたのは極めて珍しい例で、98年以降2ケタ勝利から遠ざかっていた藪投手は、背番号を変えた02年に、4年ぶりの10勝を挙げています。
【プロ野球 野村克也選手】
「8年連続ホームラン王」「6年連続打点王」「戦後初の三冠王」。いずれも野村選手が現役時代に打ち立てた、偉大な記録です。守備面でもっとも負担が大きいキャッチャーを務めながら、通算ホームラン数は王貞治選手に次いで史上2位の657本。通算ヒット数2901本も、張本勲選手に次いで史上2位。間違いなく、球史に残るスラッガーの一人です。
【サッカー ワールドカップ決勝戦】
ちょうど15年前の2002年6月30日、横浜国際総合競技場で、FIFAワールドカップ日韓大会の決勝戦が行われました。決勝の舞台に立ったのは、過去3度のワールドカップ制覇を誇るドイツと、史上最多4回の優勝を数えるサッカー王国・ブラジル。歴代1位と2位の優勝回数を誇る両国ですが、ワールドカップの決勝戦で対決するのは初めて。世界中のサッカーファンが注目する一戦となりました。
ここまでのドイツの勝利の立役者は、ドイツ代表のキャプテンでもあった、ゴールキーパーのオリバー・カーン選手。大会6試合でわずか1失点という安定感が光っていました。この大会、守備の主役がカーン選手なら、攻撃の主役はブラジル代表フォワード、ロナウド選手。ロナウド選手といえば、96年と97年にFIFA最優秀選手賞を史上初めて2年連続で受賞。98年のフランスワールドカップでは、チームは準優勝ながら大会MVPに輝くなど、“怪物”の異名をとっていました。しかし、99年と2000年に右ヒザ靭帯を何度も負傷し、ワールドカップまでの約2年間はほとんどボールを蹴ることができない状態。それでも、フタを開けてみればこの日韓大会でゴールを量産。準決勝までに6得点を決め、ブラジルを決勝の舞台に導いたのです。
迎えた決勝戦は、まさにカーン 対 ロナウドという試合に。結局、2対0でブラジルが勝利し、史上最多5度目のワールドカップ制覇を果たしましたが、大会MVPを受賞したのはカーン選手。ゴールキーパーのMVPはワールドカップ史上初の快挙でした。
来週のスポーツ伝説もお楽しみに!!