スポーツ伝説

7月6日~10日の放送内容

【サッカー ロベルト・バッジョ選手】

 繊細なボールタッチと、創造性豊かなプレーが生み出す数多くのゴールで“イタリアの至宝”と呼ばれたバッジョ選手。1985年、18歳の時に、当時としては破格の移籍金でセリエAのクラブ・フィオレンティーナと契約を交わします。ところが契約成立からわずか2日後に、右膝十字じん帯を損傷。2シーズンをほぼ棒に振りました。ケガを克服すると、今度は2シーズン連続で15ゴール以上を決め、90年には自国開催のワールドカップでイタリア代表入りします。その大会で世界を魅了するプレーを連発し、3位決定戦では1ゴールを決めた上にPKを獲得して味方の得点をお膳立て。大会後にはイタリアの新たな顔として、背番号10を託されたのです。
 93年には、サッカー界最高の栄誉であるバロンドールを受賞。絶頂期を迎えます。そして翌年のアメリカ・ワールドカップは「バッジョのための大会」となる前評判でした。ところが本大会前に、アキレス腱を負傷するアクシデントに見舞われます。それでも、決勝トーナメントで通算5ゴールを決めてイタリアを決勝戦へと導いたバッジョ選手。ブラジルとの決勝では、満身創痍の中で120分間を戦い、最終キッカーとして登場したPKに失敗。ワールドカップ制覇の悲願を、目の前で逃すことになりました。しかしファンは、悲運の連続から何度でも這い上がって来たバッジョ選手に声援を送り続けました。



【サッカー ティエリ・アンリ選手】

 高速のスピードで相手ディフェンダーを切り裂き、ゴールを量産し続けたアンリ選手。プロ選手としてのスタートは1994年、17歳の時でした。フランスリーグのモナコでデビューすると、2シーズン目に新人王を受賞、3シーズン目にはリーグ優勝を経験し、順調なキャリアを歩みます。世界が注目したのは、代表での活躍でした。98年、20歳の時に、若さと意外性を期待され大抜擢でフランス代表入りすると、自国開催のフランスワールドカップに出場。本大会で3ゴールをマークしてラッキーボーイ的存在となり、優勝の喜びも味わったのです。
 アンリ選手にとって転機となったのが、99年夏。モナコ時代の恩師、アーセン・ベンゲル監督に誘われ、イングランド・プレミアリーグのアーセナルに入団したことでした。ベンゲル監督からセンターフォワードの役割を与えられ、才能が開花。敵陣のタッチライン際を快足で突破していくシーンは、サポーターに強烈なインパクトを与えました。移籍3年目の2001-2002年シーズンで、24ゴールを挙げてプレミアリーグ初の得点王に輝くとともに、チームのリーグ優勝に貢献。このシーズンと合わせて3年連続、合計4度のプレミアリーグ得点王に輝いたアンリ選手。アーセナルではリーグ戦とカップ戦に375試合出場、通算228ゴールを挙げ、この数字は今もアーセナルの歴代最多得点記録として輝いています。



【サッカー アレッサンドロ・デル・ピエロ選手】

 身長は173㎝と小柄ながら、研ぎ澄まされた得点感覚を武器にゴールネットを揺らし続けた、デル・ピエロ選手。その真骨頂は、ゴール左・45度から右足が生みだす弾丸シュートで、いつしかそこは“デル・ピエロ・ゾーン”と呼ばれるようになりました。デル・ピエロ選手は1993年、18歳で子どもの頃から憧れだったユベントスに加入し、1年目からハットトリックを決めて注目を浴びます。2年目には、不調だったエース、ロベルト・バッジョ選手に代わってチームの中心選手になり、9年ぶりのセリエA制覇に大きく貢献。この優勝をきっかけに、デル・ピエロ選手は名門ユベントスのエースナンバー・10番を託されるようになったのです。
 2006年にクラブが2部のセリエBへと降格した時には、真っ先に残留を表明。そのセリエBで得点王となり、わずか1シーズンでセリアA復帰に導くと、今度はセリエAでも得点王に。史上2人目となるセリエB・セリエA連続得点王の快挙を成し遂げました。出場試合数705、得点数290という数字は、いずれもクラブ歴代1位。デル・ピエロ選手はまさに、ユベントスの象徴だったのです。



【サッカー スティーブン・ジェラード選手】
 
 リバプール・ファンの家庭に生まれ、9歳にしてリバプールの下部組織に入団したジェラード選手。1998年にトップチームでデビューして以降、プレミアリーグではリバプールひと筋でプレーし、“ミスター・リバプール”と呼ばれました。若手時代からシュートやパスに非凡な才能を見せ、強烈なタックルで、相手からボールを奪う守備でも高く評価されたジェラード選手。中盤ならどこでも高いレベルでプレーできるユーティリティ・プレーヤーとして、デビュー3年目にはレギュラーに定着し10得点を記録。クラブに3つのカップ戦優勝をもたらす立役者の一人となりました。
 2003年には、23歳にして早くもキャプテンに就任。その責任感がさらなる成長を促し、ゲーム運びや決定力でも飛躍を遂げたジェラード選手。その真骨頂は、逆境でこそ真価を発揮することでした。ヨーロッパ最強クラブを決める05年のチャンピオンズリーグ決勝戦では、イタリアの強豪・ACミランに前半で3点のリードを許す厳しい展開に。しかし後半開始早々、ジェラード選手が決めた気迫のヘディングゴールが口火となり、リバプールはわずか6分間で3点を返して試合を振り出しに戻します。そしてPK戦の末、“イスタンブールの奇跡”と評された歴史的大勝利でリバプールに21年ぶりとなるヨーロッパ王者の称号をもたらしたのです。



【サッカー カカ選手】
 
 2010年の南アフリカワールドカップで背番号10をつけて戦うなど、長年に渡ってブラジル代表で活躍したカカ選手は、爽やかな風貌と華麗なプレースタイルから“ブラジルの貴公子”と呼ばれました。9歳の時に、ブラジルの名門サンパウロFCの下部組織に入団。その時はテクニックそこ優れていたものの、同年代の選手に比べて骨格の発達が遅く、このままの体つきではプロになれないと言われました。それでもカカ選手の将来性を信じたサンパウロFCは、チームドクター、栄養士、フィジカルコーチなどを集め、成長を促進するためのプロジェクトチームを発足。周囲のサポートのもとで肉体改造に取り組んだ結果、カカ選手は18歳でトップチームデビュー。02年には、弱冠20歳で日韓ワールドカップのメンバーに選ばれ、世界制覇の一員となったのです。
 ブラジルで成功を収めたカカ選手は03年、イタリア・セリエAの名門ACミランに移籍。1年目から中心選手として活躍すると、ミランにとって5年ぶりとなるリーグ制覇に大きく貢献します。ミランサポーターの心をわしづかみにしたカカ選手でしたが、中でも彼らに最大の歓喜をもたらしたのは07年でした。この年、ACミランはチャンピオンズリーグの決勝戦に進出。相手は2年前、ミランにとって“イスタンブールの悲劇”と言われる屈辱の逆転負けを喫したリバプールでした。その因縁の相手に対して、カカ選手は決勝点となるゴールをアシスト。ヨーロッパ王者の立役者となったのです。大会を通じても10得点をあげて得点王に輝き、MVPを受賞。冬にはクラブワールドカップでも活躍し、ACミランをクラブ世界一へと導きました。この年、カカ選手は世界最優秀選手に贈られるバロンドールも受賞。名実ともに、サッカー界最高の選手として認められた一年でした。


        
来週のスポーツ伝説は……

7/13(月) 大相撲 武双山正士関
7/14(火) 大相撲 安芸乃島勝巳関
7/15(水) 大相撲 高見盛精彦関 
7/16(木) 大相撲 寺尾常史関
7/17(金) 大相撲 旭道山和泰関 
                       
お楽しみに!!
BACK