スポーツ伝説

4月18日~22日の放送内容

【プロ野球 青木宣親選手】

 東京ヤクルトスワローズの青木選手は、早稲田大学を経て2003年のドラフト4巡目で指名され入団。しかし1年目の04年はオープン戦で結果が出せず、二軍行きを命じられました。落ちこんだ青木選手でしたが、二軍では「人の話を聞く」ことに徹します。その結果、青木選手はイースタンリーグの首位打者に輝き、2年目の05年、開幕から一軍に抜擢。ただし一軍の壁は厚く、なかなかヒットが出ませんでしたが、ここでも青木選手は改善点を求め、人の話を聞くことに徹しました。特に参考になったのが、古田敦也監督からのアドバイスです。古田監督の指摘を受け、思い切って打撃フォームの改造に着手した青木選手。すると面白いようにヒットが出るようになり、外野のレギュラーとして一軍定着を果たしました。
 1年目の04年、青木選手の一軍出場はわずか10試合、ヒットはたった3本の成績でした。ところが2年目は開幕からヒットを重ね、阪神・藤村富美男選手が持っていたセ・リーグ・シーズン安打記録の191を55年ぶりに更新。青木選手はさらにヒット数を伸ばし、イチロー選手以来となる史上2人目のシーズン200安打を記録。球史に名を刻みました。最終的に05年は202安打を放ち、3割4分4厘の高打率で、首位打者のタイトルと新人王に選ばれました。


 
【プロ野球 中村剛也選手】

 “おかわり君”の愛称で知られる、埼玉西武ライオンズのホームランバッター・中村選手。大阪桐蔭高校から、2001年のドラフト2巡目に指名され入団。以後、昨シーズンまでの20年間で積み重ねたホームランは442本。ホームラン王のタイトルを6度獲得しています。西武入団2年目の03年、二軍戦でホームランを重ね、イースタン・リーグのホームラン王に輝きながら、なかなか一軍に定着できなかった中村選手。転機になったのが、プロ4年目の05年でした。一軍に昇格して代打で二塁打を放った際、フォームは不恰好だが必死でボールに食らい付いて行く姿勢がいいと首脳陣から評価された中村選手は、5月5日の日本ハム戦に先発出場し、4打数4安打。しかも4本のヒットのうち2本がホームラン、という快挙をやってのけました。ここから、中村選手のホームラン打者としての伝説が始まったのです。
 05年は、セ・パ交流戦が始まった年でもありました。中村選手は広島戦で、プロ野球の歴史に残る「交流戦第1号ホームラン」を放つと、その後もセ・リーグのピッチャーを相手にホームランを量産します。交流戦で12球団トップタイの12本のホームランを放ち、レギュラー獲得のチャンスをみごとものにしてみせた中村選手。この年、シーズン22本のホームランを記録して大器の片鱗を見せました。

    
   
【プロ野球 坂本勇人選手】

 2008年3月28日、高卒2年目で当時まだ19歳だった巨人・坂本選手は、神宮球場で行われた開幕ゲーム、巨人ーヤクルト戦に「8番・セカンド」でスタメン出場を果たします。10代の開幕スタメンは、巨人では松井秀喜選手以来の快挙でした。その9日後の4月6日、東京ドームで行われた阪神戦で、次なる快挙が生まれます。5回ノーアウト満塁のチャンスで打席に立つと、打球はレフトスタンドへ。坂本選手にとってプロ初ホームラン。19歳3カ月での満塁アーチは、セ・リーグ最年少記録を塗り替える快挙でした。また「10代での満塁アーチ」は、巨人では、松井選手も王貞治選手も長嶋茂雄選手もなし得なかった大記録です。くしくもこの日の東京ドームは、長嶋選手の偉業を振り返るメモリアルデー。そんな記念すべき日に、坂本選手は新たなジャイアンツのスター候補に名乗りを挙げたのです。
 坂本選手はその後もスタメンに名を連ね続けます。ポジションも、戦線を離脱した二岡智宏選手の代わりに、開幕2戦目以降はショートを任されました。するとオールスターファン投票でも、リーグ屈指のショート中日の井端弘和選手を抑え、初選出を果たします。巨人の10代野手がオールスターにファン投票で選ばれたのは、実に45年ぶりの快挙でした。後半戦でもレギュラーとして活躍を続けた坂本選手は、シーズン最終戦でもスタメン出場してヒットを2本記録。全144試合出場を果たしたのです。高卒2年目での全試合スタメン出場は、プロ野球史上3人目、セ・リーグでは史上初の快挙で、この年、巨人のセ・リーグ連覇にも貢献しています。


 
【プロ野球 菊池涼介選手】

 2011年のドラフト2位で、広島カープに入団した菊池選手。1年目の12年から63試合に出場し、野生味あふれる守備はこの時から注目を浴びていました。2年目の13年、開幕スタメンに抜擢されると、攻守にわたって大車輪の活躍を見せ、一気にカープ不動のセカンドの地位を確立します。その活躍の陰には、ふたりの偉大な師匠の影響がありました。まず打撃面では、この13年に打撃コーチに就任した新井宏昌コーチです。新井コーチのもと、足の上げ方、タイミングの取り方を見直したことで、菊池選手は開幕戦の第1打席からツーベースヒットを放つなど、積極的なバッティングと俊足を生かし、カープの切り込み隊長として存在感を発揮します。
 菊池選手の守備面での師匠は、12年に広島で現役を引退し指導者に転身した、石井琢朗内野守備走塁コーチです。アクロバティックな守備でファインプレーを見せ、“忍者守備”の異名で喝采を集めたかと思えば、1試合3エラーを記録するなど、シーズンを通してリーグ最多の18個のエラーを記録してしまった菊池選手。それでも石井コーチは「守備範囲が広すぎるからエラーの数が多いだけ。気にしなくていい」と励ましてくれたのです。その攻撃的な守備が、素晴らしい快挙を生みました。13年、菊池選手は補殺数(アウトにした数)で528という数字を記録。シーズン終了後には、ゴールデングラブ賞も受賞し、23歳7カ月での受賞はセ・リーグのセカンドでは歴代最年少記録。この13年から昨シーズンまでの9年間、二塁手部門は菊池選手が独占し続けています。



【プロ野球 山田哲人選手】

 2010年のドラフト会議で東京ヤクルトスワローズから1位指名を受け、プロ生活をスタートした山田選手。飛躍のきっかけとなったのは、プロ4年目の14年のことでした。開幕から主に1番を任されると、ヒットとホームランを量産し、一軍定着を果たします。その成長を支えてくれたのは、13年からヤクルトのコーチに復帰した杉村繁打撃コーチでした。過去、ヤクルトで青木宣親選手、横浜で内川聖一選手など、タイトルホルダーを育てた名伯楽から3年間つきっきりで練習しようじゃないかと提案された山田選手。14年、その成果が花開き、山田選手は前半戦でリーグ4位の打率3割3分1厘、ホームラン15本、50打点の好成績を記録。初めて選ばれたオールスターゲームでもホームランを放って敢闘賞を受賞し、スター選手の仲間入りを果たしたのです。
 14年後半戦、山田選手は2つの偉大な記録を打ち立てました。ひとつは、4月から9月まで6ヵ月連続で先頭打者ホームランを放ったこと。これは史上初の快挙であり、パワーがついて飛距離が伸びた証しでもありました。もうひとつの記録は、シーズン終盤の10月6日に生まれました。この日、阪神・藤村富美男選手が1950年に記録した日本人右バッターのシーズン最多安打記録、191にあと3本に迫っていた山田選手。第4打席までに3安打を放って藤村選手の記録に並ぶと、第5打席で192安打目となる逆転満塁ホームランを放ち、64年ぶりに新記録を達成したのです。翌15年に、打率3割・ホームラン30本・30盗塁のトリプルスリーを初めて達成した山田選手。2つの大記録は、その予兆を感じさせる快挙でした。
 
  

来週のスポーツ伝説は……

4/25(月) パラアルペンスキー 村岡桃佳選手
4/26(火) パラアルペンスキー 森井大輝選手  
4/27(水) パラノルディックスキー川除大輝選手
4/28(木) 競 泳  青木玲緒樹選手
4/29(金) 競 泳  水沼尚輝選手

お楽しみに!!
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