スポーツ伝説

4月27日~5月1日の放送内容

【プロ野球 アニマル・レスリー投手】

 本名は、ブラッドリー・ジェイ・レスリー。1986年に登録名“アニマル”として、阪急ブレーブスに入団。在籍したのはわずか2年間にもかかわらず、マウンドでの派手なパフォーマンスで球場を沸かせました。気合を入れてマウンドに登り、打者を抑えるたびに雄叫びを上げるのは当たり前。でもそんな荒々しいパフォーマンスの数々は、気が弱いことの裏返しでもありました。本当は心優しく繊細な性格で、苦手なものは「お化け」。そのギャップがチームメイトから愛され、ファンの心もつかんだのです。
 1年目の86年は5勝3敗19セーブと結果を残したものの、翌87年は2勝2敗5セーブと成績は急降下。阪急との契約は2年で打ち切られましたが、引退後は日本でタレントとして活躍。2013年4月、54歳の若さで亡くなりました。



【プロ野球 郭源治投手】

 日本球界ではすっかりおなじみになった、台湾出身のプロ野球選手たち。その先駆けともいえるのが、1981年のシーズン途中に来日し、16年間、中日ドラゴンズでプレーした郭投手です。来日当初こそ言葉の壁にぶつかりましたが、入団3年目の83年からは先発ローテーションの柱として、4年連続2ケタ勝利を挙げるなど、実力を遺憾無く発揮。しかし87年から指揮を執った星野仙一監督は、クローザー転向を求めました。
 周囲から不安視されながらも、郭投手は転向1年目で30セーブポイントを挙げて最優秀救援投手のタイトルを獲得。翌88年には当時のプロ野球記録を更新する44セーブポイントを挙げ、2年連続で最優秀救援投手に輝きます。またリーグ優勝の立役者ともなり、優勝決定試合では胴上げ投手に。シーズンMVPも獲得し、中日の絶対的な守護神となりました。90年代に入ると再び先発での登板も多くなり、94年には最優秀防御率のタイトルを獲得しています。日本での通算成績は106勝106敗116セーブ。100勝100セーブは、プロ野球史上5人目の大偉業でした。



【プロ野球 カルロス・ポンセ選手】

 現在の横浜DeNAベイスターズの前身に当たる、1980年代の横浜大洋ホエールズには、ヒゲを生やした選手が何人もいました。中でもポンセ選手は、ゲームソフト「スーパーマリオブラザーズ」の主人公に似ていたことから、“マリオ”の愛称でも親しまれました。プエルトリコ出身で、メジャーではミルウォーキー・ブルワーズでプレー。マイナー時代には、シーズン52本の二塁打を量産し“ミスター・ダブル”と呼ばれていました。日本の忍者映画や時代劇が大好きだったこともあり、「走れる中距離打者」を探していた大洋と合意。86年に来日しました。
 入団1年目から、打率3割2分2厘、18盗塁と期待通りの活躍を見せたポンセ選手。ホームラン27本と105打点も記録し、2年目以降は不動の4番打者としてチームの主砲を務めました。90年限りで大洋を退団しましたが、60歳になった昨年、突然、日本の野球ファンに向け、自身の打撃理論を動画投稿サイト・ユーチューブで公開。“ユーチューバー・ポンセ”として、再び注目されています。


 
【プロ野球 ラリー・パリッシュ選手】
 
 1989年、ヤクルトスワローズにメジャー通算256本のホームランを放った大物選手がやって来ました。アメリカ・フロリダ州出身のパリッシュ選手です。シーズンが開幕すると、パリッシュ選手は期待通りのパワーを発揮。来日1年目からホームランを42本放ち、ホームラン王に輝きます。ただし三振も非常に多く、この年リーグ2位の129三振を記録しました。ホームランを警戒し、真っ向勝負を挑んで来ないピッチャーに対しても、積極的にバットを振っていったパリッシュ選手。ホームランも三振も多かったのは、自分の主義を捨てなかったからです。
 しかし翌年就任した野村克也新監督は、三振の多さを問題視。ホームラン王を獲ったにもかかわらず、パリッシュ選手はたった1年でヤクルトを解雇されてしまいました。そんなパリッシュ選手にすぐ声を掛けたのが、長打力のある外国人選手を探していた阪神タイガースでした。翌90年、8月下旬の時点でリーグトップの28本を放ち、2年連続のホームラン王も狙える位置にいたパリッシュ選手でしたが、突然の退団を表明。メジャー時代に痛めたヒザが再び悲鳴を上げ、限界に達していたのです。「若手にチャンスを」と言い残し、タイトルを諦めて日本を去ったその引き際は、鮮烈な印象を残しました。


 
【プロ野球 ビル・ガリクソン投手】
 
 ガリクソン投手は1977年のドラフトで、モントリオール・エクスポズに1巡目指名され入団。この年のドラフト全体で2番目に指名された、超エリートでした。79年に弱冠20歳でメジャーデビューを果たすと、翌80年には10勝。以降、82年~87年まで、6年連続で10勝以上を挙げたガリクソン投手。86年からシンシナティ・レッズ、87年のシーズン途中にニューヨーク・ヤンキースへ移籍。この年合計14勝を挙げましたが、オフにヤンキースとの契約交渉が決裂。そこにオファーをかけたのが巨人でした。こうしてメジャー通算101勝、当時まだ29歳だった主力級ピッチャーが日本でプレーするという極めて珍しい事態になったのです。
 ガリクソン投手は、若い頃から「1型糖尿病」を患っていました。低血糖に陥る危険性があるので激しい運動は無理と言われていましたが、自分でインスリンを注射しながら投げ続け、来日1年目の88年にはメジャー時代と変わらぬ闘志溢れるプレーで14勝を挙げました。しかし翌89年は右足太ももの肉離れに苦しみ、7勝止まり。巨人は8年ぶりの日本一に輝きましたが、ガリクソン投手は日本シリーズに登板することなく、そのまま退団となりました。翌年メジャーに復帰し、91年にはデトロイト・タイガースで自身初の20勝を挙げ、アメリカン・リーグ最多勝に輝いたガリクソン投手。プレーを通じて、大きな勇気を与えてくれたピッチャーでした。

        
来週のスポーツ伝説は……

5/4(月) 大相撲 魁傑将晃関
5/5(火) 大相撲 高見山大五郎関
5/6(水) 大相撲 四代目朝潮太郎関  
5/7(木) 大相撲 若嶋津六夫関
5/8(金) 大相撲 北天佑勝彦関 
                       
お楽しみに!!
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