スポーツ伝説

4月27日~5月1日の放送内容

【プロ野球 久保康友投手】

 「真のプロフェッショナル」と呼びたくなるような個性派が少なくなったプロ野球界にあって、個性が光り輝いているのが、横浜DeNAの久保投手。走者がいる時に盗塁をしづらくさせる、クイックモーションの早さは日本屈指。1.2秒で投げられれば及第点と言われる中にあって、久保投手は1秒を切ることも可能です。手のスナップだけで投げても、「100キロは出る」というスーパーテクニック。1998年春の選抜高校野球決勝では、松坂大輔投手のいる横浜高校と対戦し、惜しくも準優勝。「松坂は本当にすごい。俺も150キロのボールを投げたいし決め球も欲しいけど、それは簡単じゃない。だからクイックモーションを一生懸命練習した」のだそうです。
 “松坂世代最後の大物”というキャッチフレーズで、2004年のドラフト自由枠でロッテに入団。2005年には新人王を獲得しますが、2009年3月、突然の阪神へのトレード。釈然としない思いを抱えながらの阪神入りでしたが、そこは日本屈指の人気球団。すぐに「移って本当に幸せ。人生が変わった」と感じられるようになったそうです。2013年には国内FA権を獲得し、横浜DeNAに移籍。中畑監督の「DeNA史上初の2ケタ勝利投手になってくれ」との期待に応え、昨シーズンは12勝をマーク。今シーズンは、開幕投手をつとめています。

 

【プロ野球 松原誠選手】

 横浜DeNAの前身・大洋ホエールズ時代、“無冠の帝王”と呼ばれた松原選手。331本の本塁打を放ち、1180打点を記録。長く活躍しながら、打撃三部門はもちろん、ベストナインもゴールデングラブも、一度も受賞していません。それは一体なぜなのか?
 ルーキー時代はキャッチャーでしたが、「バッティングを活かせ」との三原脩監督の指示で、1塁・3塁などを守るようになります。他にも、投手以外のポジションは、外野も含めてすべて経験しました。中でも1塁の守備では、捕球の時に“たこ足”と異名がつく名人芸を披露。しかし同じセ・リーグの1塁手には、巨人の王選手がいたのです。更に、3塁には長嶋選手。お陰で、毎年唇を噛む思いをしてきました。しかし1980年4月23日の阪神戦では、初回に放ったレフトスタンドへの逆転3ランが、プロ入り2000本安打の価値ある一発に。オフには引退を考えましたが、巨人からの強い希望でトレードが成立し、81年には自身初となるリーグ優勝と日本一を経験。その後、移籍選手をのぞく大洋球団として初の名球界入りを果たしました。
 


【柔道 斉藤仁選手】

 今年1月20日、日本柔道界をけん引してきた斉藤仁さんが急逝しました。現役時代は、山下泰裕選手のライバルとして、数多くの名勝負を繰り広げました。
 1984年8月10日。前年の世界選手権の無差別級と合わせ、2冠を達成。しかし全日本選手権では山下選手に敗れて優勝できず、当時の状況を「エベレストには登ったが、富士山には登っていない」と語っています。山下選手は、公式戦では1度も勝ったことがない、最大のライバルでした。その後は、84年のロサンゼルスオリンピックで頂点を極めますが、翌年からは相次ぐ故障に見舞われます。苦難を乗り越え、88年全日本選手権で優勝。ソウルオリンピック代表となりました。そのオリンピックでは、日本柔道は初日から金メダルゼロ。危機的状況で畳に上がった斉藤選手は、負けない柔道を目指します。準々決勝までは全て一本勝ちでしたが、準決勝と決勝はいずれも優勢勝ち。完治していない右ひざに、自ら針を打っての悲願の金。これが、日本の柔道選手初のオリンピック連覇となったのです。
 


【柔道 岡野功選手】
 
 1964年の東京オリンピック、男子柔道中量級で金メダルを獲得した岡野選手は、“昭和の三四郎”というべき選手。予選リーグを圧倒的な強さで勝ち上がり、事実上の決勝戦といわれた韓国の金義泰選手との準決勝を優勢勝ちで制し、ドイツのホフマン選手との大一番へ。得意の切れ味鋭い一本背負いではなく、抑え込みからの横四方固めで一本勝ちを収めました。
 翌年に体重別で行われたリオデジャネイロの世界選手権では、向かうところ敵なしの状況。「誰よりも強くありたい」との思いが募り、無差別級こそ柔道、という時代背景もあったことから、無差別級での全日本選手権に照準を絞りました。1967年に開かれたこの大会では、驚異の快進撃。170㎝・77㎏にも関わらず、100㎏以上もある強豪に対して連続技を仕掛け、見事優勝。68年は故障の影響で準決勝に終わりますが、69年は再び頂点を極めます。直後に引退を発表しますが、この時まだ25歳。実は史上最強なのでは、といわれています。

 

【女子柔道 恵本裕子選手】
 
 女子柔道は、1988年のソウルオリンピックで公開競技としてスタート。92年のバルセロナオリンピックから正式種目となりました。その金メダル第一号となったのが、96年アトランタオリンピック61キロ級の恵本選手。実績が今一つだったために期待は薄かったものの、勢いを味方に次々と強敵を倒し、堂々の金メダル獲得でした。
 高校時代はラグビーに憧れましたが、「顔に傷がつくから女子には勧められない」とラグビー部の監督に入部を断られました。「でも、格闘技がやりたい」と、誘われて柔道を始めます。柔道部に入るなり、真剣に日々練習。様々な柔道のVTRを見ながら、技の研究にも余念がありません。とはいえ、オリンピックなど夢のまた夢。卒業後は短大を経て、警察官を志していました。一大転機となったのは、1990年暮れ。別の柔道部員のスカウトに訪れた、ソウルオリンピック銅メダリストの持田典子コーチが、恵本選手に将来性を感じ、自身が指導する社会人の柔道部にスカウト。94年の全日本体重別選手権で初のビッグタイトルを獲得します。オリンピック選考会では惜しくも3位となりますが、61キロ級は有力選手不在の状態。恵本選手の攻撃型スタイルが評価され、思いがけずオリンピックへの切符をつかむことになったのです。




来週のスポーツ伝説は……

 5月4日(月) サッカー 宇佐美貴史選手
 5月5日(火) 柔  道 関根忍選手
 5月6日(水) プロ野球 山森雅文選手
 5月7日(木) プロ野球 松本幸行投手
 5月8日(金) プロ野球 ジョン・シピン選手

                       以上の5選手をご紹介します。
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