スポーツ伝説

6月1日~5日の放送内容

【プロ野球 関根潤三選手】

 1949年秋、プロ野球の再編問題で2リーグ制が採用され、太平洋野球連盟(現在のパ・リーグ)が発足。同時に誕生したばかりの新チーム 「近鉄パールス」に入団したのが関根選手でした。大学時代は東京六大学の花形選手として注目され、法政大学のエースとして通算41勝。49年に来日したアメリカ3A サンフランシスコ・シールズとの親善試合では、六大学選抜チームの先発としてマウンドに立ち、日本のプロ野球チームが全敗した相手に延長13回を1人で投げ抜く力投を見せています。
 50年、近鉄でプロ生活をスタートした関根選手。ただ、新チームとあって選手層が薄く、打線も貧弱なチームでした。そこでバッティングにも定評があった関根選手は、ピッチャーだけでなく、登板しない日は野手として打席に。のちの大谷翔平選手を思わせる、“元祖二刀流”だったのです。



【サッカー マルコ・ファン・バステン選手】

 身長188㎝の恵まれた体とチャンスを逃さない嗅覚、高い技術を活かし、ゴールを量産したファン・バステン選手。サッカー界でもっとも名誉ある賞であるバロンドールを3度も受賞したオランダのレジェンド中のレジェンドです。1981年、名門クラブ・アヤックスとプロ契約をかわし、17歳でデビュー。オランダの英雄ヨハン・クライフ選手に代わってピッチに立つと、その試合でいきなりゴールを決め、華麗なデビューを飾ります。2年目には早くも主力としてチームのリーグ連覇に貢献。3年目には得点王に輝き、アヤックスの3連覇を牽引しました。ファン・バステン選手は、ここから4年連続で得点王に輝き、その名は世界中に知れ渡ったのです。
 87年には、イタリア・セリエAのACミランに移籍。2年目にはUEFAチャンピオンズカップで得点王に輝く活躍を見せ、自身初のヨーロッパ制覇を果たします。3年目にはセリエAで初の得点王となり、チームが無敗で優勝を遂げた91-92シーズンには、25ゴールを記録して得点王に輝くなど、ゴールを量産し続けました。



【サッカー フランコ・バレージ選手】

 前線のフォワードからディフェンダーまでの幅を狭めたコンパクトな陣形の中で、相手に強烈なプレッシャーをかけてボールを奪い、攻撃に転じる戦術「ゾーン・プレス」。ACミランがこの戦術を採用するにあたって、最も重要な役割を担ったのが、ディフェンスのリーダー・バレージ選手です。バレージ選手は身長176㎝と決して恵まれた体格ではありませんでしたが、抜群の身体能力とクレバーな戦術眼を武器にミランを牽引。1978年、トップチームに昇格すると、2年目の78-79シーズンからレギュラーに定着し、セリエA優勝に貢献します。ところがその後のミランは、1部と2部を行ったり来たりする暗黒時代に突入。バレージ選手には移籍話が寄せられましたが、ミランに残留してチームと共に苦境を乗り越える道を選んだのです。
 ACミランにとってもバレージ選手にとっても転機となったのが、86年、後のイタリア首相シルビオ・ベルルスコーニ氏によるクラブ買収でした。その豊富な資金で他のクラブから優秀な選手を次々と補強。翌年にはその采配力を買って、アリゴ・サッキ監督を指揮官に招聘します。そのサッキ監督が、新戦術「ゾーン・プレス」を打ち出し、バレージ選手にスター軍団のまとめ役を任せたのです。バレージ選手はキャプテンとしてピッチ上で的確に動き、鉄壁の守備陣を形成。この活躍もあって、ミランはサッキ監督の就任1年目にセリエA制覇を果たしました。
 

 
【サッカー ローター・マテウス選手】
 
 ドイツ代表歴代最多の150試合に出場し、ワールドカップだけで5大会、歴代最多の25試合出場という大記録を打ち立てたマテウス選手。ドイツの名門バイエルン・ミュンヘンで、通算12年にわたってプレー。ブンデスリーガでの優勝経験は3連覇を含め通算7回。カップ戦優勝3回と、チームで最も多くの功績を残した選手の一人です。また88年からは4シーズンにわたって、当時ヨーロッパ最高峰のイタリア・セリエAでプレー。強豪・インテルの背番号10を背負っていきなりセリエA制覇に貢献し、ヒーロー的存在になりました。
 守備的ミッドフィルダーや、リベロでの出場が多かったマテウス選手。アピールしたのは、巧さよりも強さでした。90分間途切れないスタミナを武器に、相手の中心選手を封じ込める“エースキラー”として活躍。守備力だけでなく、ここぞという場面で見せる攻撃参加や、強烈なミドルシュートでもファンを沸かせました。マテウス選手のもう一つの魅力は、強烈な闘争心とキャプテンシーです。その象徴的な大会が90年、東西統一前最後となった、西ドイツ代表でのイタリア・ワールドカップでした。自身3度目のワールドカップで、過去2回いずれも準優勝に終わっているマテウス選手は並々ならぬ決意で大会に臨みました。決勝の相手は、前回大会と同じアルゼンチン。前回はアルゼンチンのエース、ディエゴ・マラドーナ選手からのスルーパスで決勝ゴールを決められ、ドイツは苦杯をなめました。マテウス選手はエースキラーぶりを発揮し、今度はマラドーナ選手に仕事をさせず、1対0で勝利。見事雪辱を果たし、念願の世界一をつかみ取ったのです。


 
【サッカー アンドリー・シェフチェンコ選手】
 
 1976年、ウクライナのキエフ州で生まれたシェフチェンコ選手。当時のウクライナは、旧ソビエト連邦に所属していました。少年時代には、86年に発生したチェルノブイリ原子力発電所事故で家族とともに故郷を離れる苦労を味わっています。10歳の時、スカウトの目に留まり、ウクライナの名門ディナモ・キエフに入団。94年に18歳でトップチームデビューを果たすと、毎年のようにリーグ優勝に貢献しました。
 シェフチェンコ選手が脚光を浴びたのが、97年に行われたUEFAチャンピオンズリーグです。ディナモ・キエフは、スペインの強豪・FCバルセロナと対戦。キエフが苦戦を予想された敵地でのゲームで、シェフチェンコ選手は前半のうちにPKを含む3点を奪い、ハットトリックを決めてみせたのです。翌年のチャンピオンズリーグで得点王に輝いたシェフチェンコ選手は、一躍注目のストライカーとなり、イタリアの名門・ACミランへの移籍が決まります。ACミランに移ってからも、シェフチェンコ選手はゴールを量産。移籍1年目の1999-2000年シーズンに24ゴールを記録し、いきなりセリエA得点王に輝きます。特に、宿敵インテルとの“ミラノ・ダービー”では通算14ゴールを記録。大一番では、無類の強さを誇りました。


        
来週のスポーツ伝説は……

6/8(月) プロ野球 高沢秀昭選手
6/9(火) プロ野球 園川一美投手
6/10(水) プロ野球 袴田英利選手 
6/11(木) プロ野球 西村徳文選手
6/12(金) プロ野球 水上善雄選手 
                       
お楽しみに!!
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