スポーツ伝説

4月11日~15日の放送内容

【競泳 鈴木大地選手】

 1988年に行われたソウルオリンピック。日本競泳陣は72年のミュンヘン大会以来16年もメダルから遠ざかっており、“水泳ニッポン”復活に向けアピールしたい大会でもありました。そんな期待を背負い、競泳・男子100m背泳ぎに登場した日本期待の21歳・鈴木選手は、スタートから水中に潜ったままドルフィンキックで進むバサロスタートを駆使し、予選を55秒90の3位で通過。しかし最大のライバルであるアメリカのバーコフ選手は、この予選で54秒51の世界記録を出し、トップ通過を決めていました。
 決勝が行われる直前、鈴木選手は報道陣に作戦を聞かれ、「秘密!」と一言。この後の決勝で、いつもは25mのバサロを30mに延長するという秘策を披露したのです。隣で泳いでいたバーコフ選手はこれに動揺したのか、後半に入って失速。最後は鈴木選手がタッチの差で優勝。タイムは自身の持っていた日本記録を0秒27も更新する、55秒05でした。『奇跡の金メダル』『大逆転勝利』と騒がれた鈴木選手の金メダルでしたが、実は用意周到な準備を重ねてつかんだ予定通りのメダルだったのです。



【プロ野球 巨人の背番号2をつけた選手たち】

 去年のオフ、西武からFA宣言した脇谷亮太選手は3シーズンぶりに古巣・巨人に復帰。今シーズンは以前つけていた背番号23ではなく、2でプレーすることになりました。舞い戻った理由は、「ルーキー時代からなにかと世話になった先輩・高橋由伸選手が引退し、新監督に就任したこと」と語った脇谷選手。高橋監督を胴上げできるよう頑張る決意を熱く示しました。
 脇谷選手の前に2番を去年まで着けていたのは、高橋監督と一緒に引退、今シーズンから巨人のコーチに就任した井端弘和 内野守備走塁コーチです。落合監督時代の強い中日を象徴する存在でしたが、2013年オフに巨人に移籍。ユーティリティープレーヤーの鑑のような存在として原監督に重宝され、移籍1年目の14年にはリーグ優勝に貢献しています。
 その井端選手の前に2番を着けていたのは、13年オフ、井端選手と入れ替わるように巨人から中日に移籍した“ガッツ”こと小笠原道大選手。日本ハムの主砲として活躍していた小笠原選手は、06年にはパ・リーグMVPに輝き、44年ぶり日本一の立役者となりました。その年にFA権を取得し、巨人移籍を表明すると、翌07年には巨人の5年ぶりのリーグ優勝に貢献。史上初となる、リーグをまたいでの2年連続MVPを獲得しています。以降、主軸を務めた小笠原選手の活躍で、巨人は09年までリーグ3連覇を達成。巨人では背番号2の移籍組がいい働きをし、チームの危機を救ってきた歴史があります。新しく2番を与えられた脇谷選手がその期待に応えられるか、今年が勝負の年です。
 

 
【メジャーリーグ 上原浩治投手】

 今シーズン、メジャーリーグ全体での最年長選手は、ニューヨーク・メッツのバートロ・コローン投手。5月24日に43歳の誕生日を迎えます。メジャーで40代の投手はたったの数人。その中の1人が、ボストン・レッドソックスの41歳、上原投手です。
 日本では巨人のエースでしたが、2009年1月にボルチモア・オリオールズと契約。最初は先発として起用されましたが、故障をきっかけにリリーフに転向しました。その後は、テキサス・レンジャーズを経て、13年からレッドソックスへ。移籍1年目のシーズン途中からクローザーとなり、安定したピッチングで6年ぶりの地区優勝に貢献。胴上げ投手となりました。上原投手はさらに、日本人初のワールドシリーズの胴上げ投手にもなっています。今シーズンは、セットアッパーへ転向することになりましたが、「どこで投げようが全力投球するだけ」と、3年ぶりのワールドチャンピオンを目指します。
 
 

【プロ野球 山本昌投手】

 長期に渡って同じチームをユニフォームを着て、第一線で活躍し続ける選手のことを、プロスポーツ界では“フランチャイズ・プレーヤー”と呼びます。そう呼ばれるのは、チームがずっと引き留めたいと思うだけの成績を残し、地元のファンにも深く愛されなければなりません。
 去年まで現役選手として32年間、中日ドラゴンズのユニフォームを着続けたのが、球界のレジェンド・山本投手。中日のエースとして活躍し、最多勝のタイトルも3度獲得しました。2006年には、41歳1か月で日本球界最年長のノーヒット・ノーランを達成。08年には42歳11か月で通算200勝に到達しました。そして去年、中日のシーズン最終戦となる10月7日の広島戦で日本球界初の50歳登板を果たし、現役生活に別れを告げたのです。 



【プロ野球 シーズン50本塁打記録の選手たち】

 プロ野球の長い歴史の中で、1シーズンに50本以上のホームランを打った選手はわずかに9人しかいません。この偉業を最初に達成したのは、セ・パ2リーグ制が始まった1950年、当時の松竹ロビンスに在籍した小鶴誠選手でした。“和製ディマジオ”と呼ばれた小鶴選手は、ゴルフスイングを取り入れた打法でホームランを量産。この年に51本を記録しました。この記録を13年後の63年にようやく破ったのが、南海ホークスの野村克也選手。しかし52本の記録は翌年、あっさりと巨人の王貞治選手に更新されてしまいます。64年9月、大洋戦で53号ホームランを放って日本記録を更新した王選手は、記録を55本まで伸ばしてシーズンを終了。以降、半世紀近く、この55本が越えられない大きな壁となりました。85年には、三冠王に輝いた阪神のランディ・バース選手が54号を打ちますが、あと1本が打てません。2001年には近鉄のタフィ・ローズ選手、02年には西武のアレックス・カブレラ選手が55号を打ってついに王選手に並びましたが、2人とも56号は打てずに終わりました。13年、ついに記録を破ったのは、東京ヤクルトのウラディミール・バレンティン選手でした。9月に56号を打って49年ぶりに記録を更新すると、60本の大台に到達。これが現在の日本記録となっています。  
 他に50本越えを達成したのは、“ミスター三冠王”ことロッテの落合博満選手と巨人の松井秀喜選手。松井選手は日本でプレーした最後の年の最終戦、最終打席で自身初となる50号を放ち、翌年にヤンキースに移籍したため、これが松井選手の日本最後のホームランとなりました。





来週のスポーツ伝説は……

        『消えたスタジアム』
            
                       お楽しみに!!
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