スポーツ伝説

7月17日~21日の放送内容

【プロ野球 荒木雅博選手】

 6月3日、ナゴヤドームで行われたセ・パ交流戦の中日 対 楽天戦で、荒木選手は楽天の美馬学投手からライト前にヒットを放ち、通算2000本安打を達成しました。プロ野球48人目の偉業ですが、ここまで22年もかかったのは、プロ入りして最初の5年間でわずか15本しかヒットを打てなかったから。しかも、2000本安打を打った時点での通算ホームラン数は33本。これは記録達成者中、最も少ない数字です。
 非力なタイプだったからこそ、徹底して小技を磨き、コツコツとヒットを積み重ねていった荒木選手。その真骨頂は、右方向に流すバッティングです。パワーで勝負しては自分に勝ち目はないと考え、ランナーを進めるための右方向へのバッティングを毎日何度も繰り返し、自分の得意技としました。2000本目の記念のヒットが右方向に飛んだのは、まさに荒木選手を象徴していたともいえます。
    
   
 
【プロ野球 則本昴大投手】

 今季前半戦のプロ野球で達成された偉大な金字塔といえば、東北楽天ゴールデンイーグルスのエース・則本投手が成し遂げた大記録、8試合連続2ケタ奪三振。昨年まで、3年連続でパ・リーグの最多奪三振のタイトルを獲得してきた則本投手ですが、“ドクターK”と呼ばれた野茂英雄投手が近鉄バファローズ時代に記録した「6試合連続」を上回るプロ野球新記録は、大きな注目を浴びました。しかも、「8試合連続2ケタ奪三振」は、メジャーリーグでも過去にたった2人しか成し得ていない記録。まさに“新ドクターK”誕生の瞬間だったのです。
 則本投手の強みは、150キロを超えるストレート。でもその球速以上に、「回転数が多い」という興味深いデータがあります。1分間の回転数は、多い時で2500回転以上。平均でも2300回台の後半ですから、これはメジャーリーグで奪三振が多い投手と比較しても高い数字です。この回転数の多さに加えて、昨年から、よりコントロールを重視するスタイルへのモデルチェンジを目指してきた則本投手。コントロールがよくなったことで、スライダーやフォークボールなど、ストライクからボールゾーンへと変化する球をより効果的に使えるようになったことも、三振が増えた要因です。

   

【競泳 中村真衣選手】
 
 2000年、シドニーオリンピック女子100m背泳ぎで銀メダル、女子4×100mリレーで銅メダルと、一人で2個のメダルを獲得した中村選手。1996年に高校生でアトランタオリンピック代表に選ばれ、女子100m背泳ぎで4位に。この時、もし自己ベストのタイムで泳いでいればメダルに手が届いていたことから、後悔した中村選手は、次のオリンピックを目指して猛練習を積みました。シドニーで獲得した2つのメダルは、アトランタでの悔しさをバネにつかんだものだったのです。
 シドニーでは銀と銅。「今度こそ金メダルを!」と意気込んだ2004年のアテネオリンピックでしたが、後輩選手の追い上げや体力的な衰えもあり、選考会でふるわず、中村選手は代表入りを逃してしまいました。失望感に襲われ、一時はプールからも離れてしまいましたが、「真のアスリートの負けは、戦いをやめること」というサッカー日本代表のゴールキーパー・川口能活選手の言葉に一念発起。半年ぶりに水泳の練習を再開すると、翌05年、日本選手権の女子50m背泳ぎで優勝。世界選手権でも4位に輝いたのです。

   
    
【競泳 荻原智子選手】

 “ハギトモ”の愛称で親しまれた萩原選手は、小学2年生の時に海で溺れたことがきっかけで水泳を習い始めました。高校時代は200m背泳ぎでインターハイ3連覇を達成し、1998年、高校3年生の時に出場したアジア競技大会で3個の金メダルを獲得。オリンピック・メダル候補としての注目度に加えて、“ハギトモ・スマイル”と呼ばれた笑顔で、アイドルスイマーとして人気を集めました。
 しかしその明るい笑顔とは裏腹に、萩原選手の競技人生は様々なトラブルに見舞われ続けました。それでも不屈の精神で何度も立ち上がった萩原選手。現在は2020年東京オリンピック・パラリンピックの組織委員に就任し、現役時代同様、水泳の魅力を世間に発信し続けています。

   

【競泳 柴田亜衣選手】

 昨年のリオデジャネイロ オリンピックで、メダルラッシュに沸いた日本競泳陣。女子自由形で近年、世界への風穴を開けた存在といえば、2004年のアテネオリンピックで800m自由形で金メダルに輝いた柴田選手です。これは日本人女子自由形における、史上初の快挙でした。
 実は柴田選手、高校時代まではほぼ無名の存在でした。しかし大学で田中孝夫コーチと出会ったことをきっかけに、わずか2年で日本代表に選ばれるまでに成長。03年、バルセロナで行われた世界水泳に初出場を果たしました。このときは予選敗退と結果は出せませんでしたが、同い年の北島康介選手が100mと200mの平泳ぎで世界新記録を樹立し、金メダルを獲得した姿に強い刺激を受けました。そこで柴田選手はさらなる努力を積み重ね、翌年のアテネオリンピックで見事金メダルを獲得したのです。オリンピック金メダルで自信をつけた柴田選手は、以降の国際大会でも強さを発揮。05年の世界水泳モントリオール大会では、400m自由形で日本新記録の好タイムを出し、銀メダルを獲得。07年の世界水泳メルボルン大会でも、400m自由形と1500m自由形の2種目で日本新記録を樹立し、どちらも銅メダルを獲得しています。

   
   
来週のスポーツ伝説は……

  7月24日(月) オリンピック 旧国立競技場
  7月25日(火) 高 校 野 球  別当薫投手・佐藤由規投手
  7月26日(水) 高 校 野 球  1941台湾大会
  7月27日(木) 高 校 野 球  甲子園に縁のなかったスターたち
  7月28日(金) プ ロ 野 球  背番号列伝10番
            
                       お楽しみに!!
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