スポーツ伝説

4月13日~17日の放送内容

【プロ野球 下柳剛投手】

 阪神、ダイエーなど4球団に所属した下柳投手は、先発・中継ぎ・抑えと、投手の仕事の全てを経験。いずれでも一流の結果を残しています。2002年オフに日本ハムから阪神に移籍すると、日本一のファンの後押しに大感激。のらりくらり投法と呼ばれた投球術は、芸術といわれました。2005年の春季キャンプでは、「絶対に優勝しましょう。オレが2ケタ勝ちますから」と、岡田監督に約束。あわせて最多勝を狙うとも宣言し、15勝挙げてタイトルを獲得。優勝も飾る最良のシーズンとなりました。
 野球が好きでたまらず、高校野球の指導者を目指すために大学へ。しかし「やはり、やるならプロ」と一念発起し、中退して大洋のプロの入団テストを受けました。最終選考まで残ったものの、結果は不合格。実は、中退してすぐにはプロ入りできないという決まりがあったのです。半年後に社会人チームのテストを受け、こちらは見事に合格。そこで3年間、徹底的に自分を鍛え上げ、90年のドラフトでダイエーから4位指名を受け、ようやくのプロ入りとなりました。入団後2シーズンは鳴かず飛ばずでしたが、92年オフに根本陸夫監督に喝を入れられ、生まれ変わります。不平不満を漏らさず、「行け」と言われればいつでもマウンドへ。試合前の練習やブルペン投球も一切の手抜きをせず、ファンからはアイアンホークと呼ばれるようになりました。



【プロ野球 伊藤敦規投手】

 阪神、阪急などで活躍した伊藤投手は、低迷期のタイガースにあって、ファンから絶大な支持を受けた鉄腕でした。96年オフに横浜から戦力外通告を受けた伊藤投手は、「阪神のテストを受けてダメなら諦めがつく」と、最後のチャレンジを。その思いが通じたのか、吉田義男監督の目に留まり、念願の縦じまユニフォームに袖を通しました。与えられた役割は、これまで経験してきた先発ではなく、中継ぎ。それでも移籍1年目は、60試合に登板し、8勝5敗8セーブをマークしました。
 1997年から2001年まで、史上7人目となる5年連続の50試合登板を支えたのは、「テストで拾ってくれた阪神のため」という思い。ただ残念なことに、この時期はチームが低迷。活躍に思ったほどのスポットが当たりませんでした。それでも、2000年にはリーグ最多の71試合に登板。防御率は1.86という驚異的な数字をマーク。この年37歳の伊藤投手は、シーズン70試合登板した投手の中で、歴代最年長記録を達成しています。
 


【プロ野球 小宮山悟投手】

 ロッテや横浜で活躍した小宮山投手は、制球力で勝負した個性派。1990年代はロッテの低迷期ながら、小宮山投手は93年、開幕から6連続完投勝利を達成します。日本記録は、89年の巨人・斎藤雅樹投手の11試合連続完投勝利ですが、開幕からというのは、91年の工藤公康投手の5試合連続が最高。それでも、「記録は興味の対象外。勝ちたかっただけです」と、いつものように淡々としていた小宮山投手。しかし7連続の期待がかかった5月20日のオリックス戦では、持ち前の制球がいまひとつで8回に降板。「次あたりはやられる、という気持ちがあった」と、実はプレッシャーを感じていたことを明かしています。
 1999年1月。自主トレ開始を前に、小宮山投手は異例とも思える「世紀末の大勝負」に出ました。97年の契約更改で、スコアラーや打撃投手の待遇改善など、チーム強化のため様々な改革を訴えており、もしそれらが進まない場合は、翌年「FA宣言する」と強気の姿勢を打ち出したのです。結局はFA宣言前にフロントから戦力外通告を受けることになったのですが、その後、横浜、メッツと移籍し、浪人も経験。更には喧嘩別れしたはずのロッテからも再び声が掛かり、2009年に44歳21日で当時の史上最年長セーブを達成。現役引退に華を添えました。



【大相撲 照ノ富士春雄関】

 5月場所初日まで、ついに1か月を切った大相撲。3月場所で一躍脚光を浴びた関脇の照ノ富士関は、1940年の五ツ島関以来、昭和以降の新三役で初日から7連勝を飾るなど、現時点で最も大関に近いと言われています。モンゴル出身力士としては8人目の関脇。191㎝、180㎏の巨体は、素質の塊です。モンゴルでは横綱・白鵬関のお父さんから柔道の指導を受けていましたが、将来を考えて相撲への挑戦を決めました。
 2010年、元横綱・2代目若乃花の間垣部屋へ入門。若三勝の四股名を与えられますが、親方が体調を崩し、2013年3月に部屋を閉鎖。伊勢ヶ浜部屋に移籍となりました。伊勢ヶ浜部屋には、横綱・日馬富士関、安美錦関などがおり、稽古相手に事欠きません。移籍後、2場所連続で6勝1敗の好成績を収め、十両へ昇進。その際に、第38代横綱・照国関と、師匠の第63代横綱・旭富士関の四股名を合わせ、照ノ富士と改名したのです。



【柔道 猪熊功選手】

 大学4年で初出場した柔道の全日本選手権決勝で、猪熊選手は神永昭夫選手を破る大金星を挙げました。学生初優勝、初出場優勝と、史上初の快挙が二つ並び、最年少Vのおまけまでついた衝撃的なデビュー。その後、1964年の東京オリンピック重量級で金メダルを獲得しました。
 生まれ育ったのは、神奈川県横須賀市。米軍の基地があり、猪熊選手が通った道場にも、多くのアメリカ人がいました。そこでコーチをしていた海兵隊のダン・ドレーラー少佐から学んだのは、根性や忍耐よりも、筋トレや食事の大切さ。「牛乳を飲め。肉を食べろ」と教わりましたが、1950年代初期はまだ、食料が豊かではない上に高価でした。しかしお母さんにそれを伝えると、「体力をつけるためなら」と、牛乳と卵・肉を妹さんたちとは別に与えてくれたのだとか。猪熊選手の金メダルを生み出したのは、基地の街と、お母さんの献身的なサポートでした。





来週のスポーツ伝説は……

 4月13日(月) プロ野球 仁志敏久選手
 4月14日(火) プロ野球 新浦寿夫投手
 4月15日(水) プロ野球 菊池涼介選手
 4月16日(木) 大相撲  若の里関
 4月17日(金) サッカー ハリルホジッチ日本代表監督

                       以上の5名をご紹介します。
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