スポーツ伝説

4月4日~8日の放送内容

【プロ野球 堀内恒夫投手】

 1965年に初めて開催された、プロ野球ドラフト会議。ドラフト1期生として甲府商業高校から巨人に1位指名され入団したのが、堀内投手です。伸びのあるストレートと大きく曲がり落ちるカーブを武器に、1年目から一軍入りした堀内投手は、1966年4月14日の中日ドラゴンズ戦で先発を命じられます。この日、先発ローテーションの谷間で、巨人・川上哲治監督は、打撃投手要員としてベンチに入れていた堀内投手を試しに使ってみたのです。急遽巡ってきたプロ初登板。緊張をほぐすために堀内投手は、ウォーミングアップの第1球をわざとバックネット目がけて暴投してみせました。この度胸の良さで6回を2失点に抑える好投を見せ、降板した直後に巨人打線が逆転に成功、堀内投手は嬉しいプロ初勝利を挙げたのです。
 その後、コントロールが定まらず二軍落ちしましたが、一軍に復帰すると5月30日の大洋戦で完封勝利を挙げ、快進撃が始まります。このゲームから3試合連続で完封勝利。その後も無失点ピッチングは続き、「44イニング連続無失点」という記録を作りました。7月27日の阪神戦で完投勝利を挙げると、開幕からの連勝記録はついに「13」まで伸びました。しかし中3日で投げた広島戦で初黒星を喫し、記録はストップ。それでも開幕13連勝という新人記録は、いまも破られていません。堀内投手はこの年16勝2敗。防御率1.39で、セ・リーグ新人王と最優秀防御率、さらに沢村賞も受賞する快挙を成し遂げました。翌67年、堀内投手は背番号を「21」からエースナンバーの「18」に変わり、V9時代の巨人のエースとして君臨していくことになります。


  
【プロ野球 与田剛投手】

 1989年、平成最初のドラフト会議は、新日本製鐵堺の野茂英雄投手に8球団の1位指名が集中する中、中日ドラゴンズが単独1位指名で獲得したのが、NTT東京の与田投手です。星野仙一監督が何度も与田投手のビデオを観て、「野茂投手と同等クラス」と判断しての思いきった決断でした。亜細亜大学時代は血行障害もあってわずか1勝しか挙げられなかった与田投手。社会人野球で自分のフォームを見直し、走り込みで足腰を鍛えると、驚くほどボールが速くなったといいます。プロ初登板は90年4月7日、横浜大洋ホエールズとの開幕戦。同点の延長11回表、ノーアウト一・三塁という大ピンチの場面でした。星野監督が交代を告げる前に与田投手がマウンドに上がろうとして、止められるシーンも。勝負に対する気迫はすでに新人らしからぬものがありました。
 与田投手の記念すべきプロ第1球。キャッチャー中村武志選手からのサインを確認すると「フォークボール」でした。指示どおりに投げた与田投手。ところが力が入ってショートバウンドになってしまい、中村選手が慌ててこのボールを止めます。実は与田投手の勘違いで、中村選手はストレートを要求していました。中村選手が体を張って止めてくれたおかげで、たった1球で暴投から失点という最悪な事態から逃れた与田投手は、これで落ち着きを取り戻し、その後投げた17球はすべてストレート。うち13球が150キロ超えの剛速球でした。この回を無失点に抑え、絶体絶命のピンチをしのぎましたが、試合は11回裏、雨が強くなりコールドゲームで引き分け。これで星野監督の信頼を得て、シーズンを通じて抑えを任された与田投手。1年目から50試合に登板し4勝。新人では当時最多となる31セーブを挙げ、最優秀救援投手のタイトルとセ・リーグ新人王に選ばれました。

    
   
【プロ野球 赤星憲広選手】

 愛知県の大府高校に入学した時は右打者だった赤星憲広選手。監督の勧めで、俊足を生かせる左打者に転向すると内野安打が増え、足を活かす野球を考えるきっかけになります。1年生秋からショートのレギュラーとなり、2年生と3年生の時、春のセンバツに出場しました。亜細亜大学に進学後も東都大学リーグで通算45盗塁をマークし、俊足を生かした外野の守備も評価されましたが、身長170センチの小柄がネックとなりドラフトの指名を見送られました。赤星選手は、社会人野球・JR東日本入社後にシドニーオリンピックの強化指定選手に選ばれ、プロのキャンプに参加したことが野球人生の転機となります。特に、赤星選手の俊足に目をつけたのが、阪神タイガースの野村克也監督でした。2000年のドラフト、野村監督の強力なプッシュで、赤星選手はドラフト4位で入団。ただこの時点では監督も、代走起用程度の考えでした。
 まず1年目は、赤星選手は苦手だったバッティングの技術を向上させることに集中。大柄な選手に負けないようにと力を入れたのが、入念な準備と研究でした。赤星選手は、ピッチャーの配球を徹底的に研究。打って塁に出た後も、自分がランナーの時にはどんな配球をするのかを、じっと観察していたそうです。すると、配球を見た瞬間にどのタイミングで走ったらいいのかが、自然と見えるようになったという赤星選手。 1年目は128試合に出場し、ホームランは1本だけでしたが、打率2割9分2厘で、リーグトップの39盗塁をマーク。史上初めて、新人王と盗塁王のダブル受賞を果たしました。この年から5年連続で盗塁王を獲得し、03年・05年のリーグ優勝にも大きく貢献した赤星選手の原点は、1年目の徹底した「準備と研究」でした。


 
【プロ野球 三瀬幸司投手】

 2003年のドラフト7位で福岡ダイエーホークスに入団し、プロ1年目の開幕を28歳で迎えたオールドルーキー、三瀬投手。所属していた社会人チームが03年限りでの休部となり、これを機に野球を辞めるつもりだった三瀬投手をホークスが入団テストに誘い、そこで首脳陣から高評価を受けたことでプロ入りへの道が開いたのです。すでに結婚もして子供もいただけに家族の反対もありましたが、説得の末、入団にこぎつけた三瀬投手。決死の覚悟のもと、キャンプ・オープン戦で結果を残し、見事開幕一軍入りを果たします。04年4月12日の近鉄戦でプロ初セーブを挙げると、そのままホークスの抑えに定着したのです。当時、守護神の不在が長年の懸案事項だったホークスにとって。それだけに、新人サウスポーの奮闘ぶりは、まさに救世主でした。
 新人でありながら、もう後がないと自らを追い込み、若手からも盗める技術はすべて盗んだと言う三瀬投手。そのどん欲さと崖っぷちの心理状態が、抑えという大役にも動じないメンタルの強さにつながり、試合を重ねるごとに評価を高めていきました。三瀬投手はプロ入りしてからストレートの球威がアップし、変化球はもともと得意だった右打者へのスライダーに加え、左打者にはプロ入りしてから覚えたというシュートを駆使。投球の幅が広がったことで大きな自信をつかみ、次々とセーブを重ねていきます。7月にはオールスターゲームにも出場。シーズンを通して活躍を続けた結果、4勝3敗28セーブで最優秀救援投手のタイトルを獲得。パ・リーグ新人王にも輝いたのです。28歳7カ月での新人王はパ・リーグ史上最年長受賞。ルーキーの28セーブは現在もパ・リーグ新人最多記録と、三瀬投手は球史にその名を残したのでした。



【プロ野球 摂津正投手】

 福岡ソフトバンクホークス・攝津投手は、高校時代にプロからの誘いはなく、社会人野球のJR東日本東北に入社します。その後もプロから声はかからないまま社会人7年目を迎えた2007年には、ワールドカップの日本代表として出場。優秀投手に選ばれましたがドラフト指名には至らず、プロへの思いも薄らいでいたと言います。ところが翌08年のドラフトで、ソフトバンクが5位で攝津投手を指名。駅員の制服を着て仙台駅のホームに立っていた攝津投手は一転、プロのユニフォームを身にまとうことになりました。
 26歳と遅いプロ入りだからこそ1年目から結果を出すべく、攝津投手はオープン戦で10試合に投げて3勝3セーブ、防御率0・00と驚異的な数字を残し開幕一軍入りを果たします。公式戦でも抜群の安定感で首脳陣の信頼を勝ち取り、主に7回を任された攝津投手。8回のブライアン・ファルケンボーグ投手、9回の馬原孝浩投手との必勝パターンは、頭文字をとって“SBMリレー”と呼ばれるようになりました。社会人時代から連日100球を投げていたスタミナを武器に、連日マウンドに上がった摂津投手。7月にその頑張りが報われます。オールスターゲームのファン投票パ・リーグ中継ぎ部門で、2位になんと10万票近い差をつけて1位となったのです。後半戦も変わらぬペースで投げ続けた攝津投手は、パ・リーグの新人登板記録を更新。最終的に70試合の登板を果たし 5勝2敗防御率1.47。34ホールドはリーグトップで、最優秀中継ぎ投手賞のタイトルとパ・リーグ新人王にも選ばれました。

  
   
来週のスポーツ伝説は……

4/11(月) 体 操 内村航平選手
4/12(火) ラグビー堀越正己選手  
4/13(水) ラグビー廣瀬俊朗選手
4/14(木) ゴルフ 倉本昌弘選手
4/15(金) ゴルフ セベ・バレステロス選手

お楽しみに!!
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