スポーツ伝説

6月29日~7月3日の放送内容

【プロ野球 森友哉選手】

 西武ライオンズのプロ2年目、森選手が本格的にブレイクしました。DHで開幕スタメンを果たすと、自慢の長打力でホームランを量産。6月3日に中日戦では10号・11号を放ち、西武では清原和博選手以来19年ぶりとなる「10代で2ケタホームラン」をマーク。球界を代表する、打てるキャッチャーへの挑戦がスタートしました。
 一昨年のドラフトで1位で西武に入団。しかしチームには、プロトップクラスの盗塁阻止率を誇る炭谷銀仁朗捕手が健在。それだけに、DH制が採用されないセ・リーグ主催の交流戦では、ライトの守備へとまわりました。でもこれは「コンバートじゃない」と、編成関係者。交流戦限定での特別措置ながら、森選手は無難にこなす柔軟性を見せています。レギュラーシーズンでは豪打を連発している森選手ですが、開幕前のオープン戦では不振続きで2軍落ちしています。スタッフが総出でアドバイスを送りますが、キャッチャーとしての進歩はいまひとつ。しかしバッティングは別人のようになり、潮崎2軍監督は開幕1軍の進言を。そこで田邉監督は、DHという起用法を思い立ちました。これは森選手にとって願ってもないこと。本人は「守備より打撃で力を発揮したい」というのが本音のようです。

  

【プロ野球 三浦大輔捕手】
 
 好調の横浜DeNAベイスターズを象徴するのは、41歳の大ベテラン・三浦投手。自身の開幕3連勝は、1996年以来2度目の記録。前回は勝敗がつかない1試合を挟んでいただけに、開幕3戦3勝は24年のプロ生活で初の体験です。今シーズンの初登板は5月5日。山本昌、工藤両投手と並ぶ23年連続勝利のプロ野球タイ記録を達成しました。20日には、バッティングであの王貞治選手を超える23年連続安打を放ち、プロ野球歴代5位タイに躍進。ピッチャーでは、もちろん史上1位の記録です。登板するたびに数々の記録を打ち立てるのは、レジェンドの特権。今年の交流戦の初勝利も三浦投手がもたらしました。20勝の時に続き、30勝も両リーグで一番乗り。ともに球団史上初の快挙でした。
 三浦投手は、実はコーチ兼任。登板の後は2軍で調整を行い、ローテーションの谷間を埋める重要な役割を担っています。「あくまでも選手優先で」と指示を受けているそうですが、自分には人一倍厳しい三浦投手。午前8時前に球場に到着すると、早出の個人練習からスタート。入念に準備してから全体練習に参加し、その後は若手を指導。練習が終わるとコーチミーティングに出席し、帰宅後はテレビで1軍の試合を見て、様々な分析を。チームを悲願の優勝に導くことが、“ハマの番長”の大きな目標です。

 
 
【プロ野球 松岡弘投手】

 プロ野球史上、最も早いボールを投げたピッチャーは誰か? そういう議論で必ず名前が挙がるのは、ヤクルトで活躍した松岡投手です。通算成績が191勝190敗。勝利の数よりも、「190敗も胸を張れる数字。つまり負けてもまたチャンスが与えられる。これがエースで居続けた証明のようなもの」と話していました。
 1978年10月4日、松岡投手は神宮球場のマウンドで運命の時を迎えました。セ・リーグで優勝経験がないチームは、この時点でヤクルトだけ。この日の中日戦、勝てば球団創設初のリーグ優勝が決まるのです。「あの時ぐらい、気持ちがよかったことはない。スタンドから地響きのような拍手が沸き起こる。その波が全てマウンドへ向かってくるように感じた」と、松岡投手。初優勝を見事に完封で飾ったのです。その年の日本シリーズの相手は、それまで3年連続日本一の王者・阪急。松岡投手は第2戦でシリーズ初勝利を挙げると、第4戦・第5戦と救援でセーブを挙げ、運命の第7戦へ。途中、ヤクルトの大杉勝男選手がレフトポール際に放ったホームランを巡り、阪急・上田監督が猛抗議。1時間19分もの中断がありましたが、それすら「あれがいい休養になった」と、完封で日本一に。この年2度目の胴上げ投手になり、沢村賞にも輝くという、最高のシーズンとなったのです。
 


【大 相 撲  佐田の海関】

 親子で入幕を果たした力士は過去に何組かいますが、これまで成し遂げられなかったのは、親子で共に新入幕の場所で三賞を受賞すること。2014年5月場所、この偉業を史上初めて達成したのは、父のしこ名を受け継いだ佐田の海関。「父を超えるのが親孝行。どんどん番付をあげて、一歩でも近づきたい」との言葉通り、ジワリジワリと力をつけてきました。大混戦だった今年の5月場所。佐田の海関は初日、優勝した照の富士関、そして4日目には横綱・日馬富士関を破る金星をあげました。結果は8勝7敗の勝ち越し。こうなると当然、三賞の一つ・殊勲賞の有力候補です。しかし審判部の伊勢ヶ浜部長が三賞選考委員会で意義を唱え、『該当者なし』を主張。佐田の海関は5月場所を面白くした陰の立役者のひとりだっただけに、気の毒としか言いようがありません。
 中学卒業後の2003年、「どうしても力士になる」と、お父さんの弟弟子だった元小結両国、境川親方の元に入門。2007年11月場所で三段目、2010年1月場所で幕下と、各地位で優勝。同年5月場所で好成績をあげ、栃東関以来、14年ぶりの親子関取が誕生します。しかし十両昇進の翌年、2011年9月場所の千秋楽で右足首を脱臼骨折。翌場所は全休を余儀なくされ、幕下に転落しました。その間、佐田の海関は自分より後に入門した弟弟子・豪栄道関の付け人に。涙を流しましたが、精進は忘れませんでした。本場所千秋楽の翌日は休日ですが、ただ1人まわしをつけ、稽古場で基本練習を繰り返したのです。13場所ぶりでの十両復帰や再入幕を果たしたのは、努力の積み重ねの賜物。小柄で地味な存在ですが、相手を研究しつくし、通をうならせる取り口には定評があります。
 


【レスリング 柳田英明選手】
 
 アニマルというニックネームは、圧倒的な強さを誇るレスリング選手に与えられた勲章。1964年東京オリンピックフェザー級の金メダリスト・渡辺長武選手が最初にそう呼ばれ、1972年のミュンヘンオリンピックでアニマル2世が誕生。それが、レスリングフリースタイル57キロ級の金メダリスト・柳田選手です。ミュンヘン大会で柳田選手が出場した57キロ級は、東京オリンピック・メキシコオリンピックで上竹洋次郎選手が連勝しており、柳田選手には3連覇の期待が掛かっていました。「金メダル以外はいらない」と試合前から豪語していた柳田選手。直前に減量で苦しみましたが、精神面の充実は際立っていました。ウォーミングアップ場では、体力を温存しようと軽く一眠り。あまりにイビキが大きかったことから、その図太さにライバルたちが恐れをなしたという伝説も作りました。事実上の決勝と言われたサンダース選手との4回戦で判定勝ちを収めると、順当に勝ち進み、7回戦でもインドの選手に勝って7戦7勝。柳田選手の金メダルが決定しました。この一報が伝わると、故郷・秋田の実家には、祝福のために関係者や知り合いが続々と駆け付け、家の床が抜けてしまったとか……
 ちなみに出身の秋田県八郎潟町からは、4人のオリンピック選手が誕生。柳田選手の他には、ソウル大会レスリング金メダリストの佐藤満選手、東京大会重量挙げ銅メダリストの一ノ関史郎選手、ミュンヘン大会重量挙げの斉藤久治郎選手がいます。 
 
 

来週のスポーツ伝説は……

 7月 6日(月) プロ野球  藤川球児投手
 7月 7日(火) 大リーグ  青木宣親選手
 7月 8日(水) プロ野球  木俣達彦捕手
 7月 9日(木) プロ野球  清田育宏選手
 7月10日(金) 大リーグ  パット・ベンディット投手

                       以上の5選手をご紹介します。
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