スポーツ伝説

5月4日~8日の放送内容

【サッカー 宇佐美貴史選手】
 サッカー日本代表チームにハリルホジッチ監督が就任して最も活躍した選手の一人が、J1ガンバ大阪のエース・宇佐美選手。3月31日のウズベキスタン戦で、後半18分に悲願のA代表初出場。「シュートコースがパッと見えた瞬間、ゴールをイメージできた」と、ゴール左に見事なシュートを決めました。2011年6月にザッケローニ体制でA代表に初招集されるも、ベンチ要員。後任のアギーレ前監督からも注目されることなく、チームでは“ガンバの最高傑作”と呼ばれながら、フラストレーションばかりが溜まる日々でした。
 かつては、オランダ前代表監督で現マンチェスター・ユナイテッドのファンハール監督から熱烈なラブコールを受け、ドイツのバイエルン・ミュンヘンに移籍。背番号14を用意する好待遇で迎えられましたが、移籍をしてみると肝心のファンハール監督はすでに退任後。運に恵まれませんでした。しかしそんな逆境にもめげず、宇佐美選手は今、サムライブルーの救世主へと変身を遂げつつあります。
 
 

【柔道 関根忍選手】
 ミュンヘンオリンピックでは、柔道の全6階級制覇を目指した日本。しかし最初の重量級が銅、続く軽量級ではよもやのメダルなし。そんな状況の中、中量級に出場した関根選手にかかるプレッシャーは、想像を超えるものでした。「とにかく勝つ」という気持ちばかりが先走り、5回戦で呉勝立選手にまさかの敗北を喫します。しかし呉選手が決勝に進んだことで、関根選手にも敗者復活のチャンスが回ってきました。なんとか勝ち上がり、決勝で再び呉選手と対戦。しかしなかなか攻めの形が作れずにいる内に、残り時間はもう数十秒。勝負に出た関根選手は捨て身の体落としを繰り出しますが、技のかかりが浅く、決め手とはなりません。結局勝負は判定となり、関根選手はなんとか薄氷の勝利をつかみました。
 大きな志が芽生えたのは、1964年の東京オリンピック。「金メダルを獲る」と誓い、66年にはアジア選手権で優勝。しかし東京では正式種目になった柔道が、68年のメキシコでは不採用となりました。関根選手は4年後のミュンヘンまで、雑念を振り払い猛練習の毎日を送ります。そして迎えた1972年。関根選手はすさまじい強さを発揮し、中量級で全日本王者に。オリンピック代表に選出されたのです。しかし実は選出後、左膝のじん帯を切って練習ができない日々が続いていました。現地の選手村でも満足な食事をとらず、体重も5㎏ほど減っていたとか。金メダル獲得の裏には、そんなドラマもありました。 



【プロ野球 山森雅文選手】
 1981年9月16日、西宮球場で行われたロッテ戦で、阪急の山森選手は、「打球の音を聞いただけで飛ぶ方向が分かる」という名人芸を披露しました。それは1回表、阪急の先発・山田久志投手のボールを、ロッテの弘田澄夫選手がジャストミートした時のこと。山森選手はその打球音にすぐさま反応し、ラッキーゾーンがある金網フェンスまで移動。右足を金網に掛けると、その勢いで左足をフェンス上のバーに乗せました。右手と左足でうまくバランスを取りながらグラブを差し出すと、ボールは計算通りにその中へ。弘田選手のホームランは、ただのレフトフライへと変わったのです。
 それから2年。「すっかり忘れていた」という山森選手の元に、思いがけない知らせが飛び込みます。アメリカでテレビ放送された山森選手の映像がきっかけで、メジャーリーグコミッショナー事務局が、そのスーパーキャッチを『ベストファインプレー賞』として表彰するというのです。これにより、日本人として初めて、ニューヨーク州クーパーズタウンにある野球殿堂入りが決定。現在も、世紀の一瞬をとらえたパネル写真が飾られ、映像が繰り返し流されています。



【プロ野球 松本幸行投手】
 試合時間の短縮は、日本球界だけでなく、メジャーリーグでも常に取り組んでいるテーマ。しかし日本には1970年代、“早投げの松”と呼ばれた投手がいました。中日・阪急で活躍した個性派、松本投手です。巨人の10連覇がかかった1974年。このシーズン、ドラゴンズファンにとって伝説となったのが、松本投手。20勝をあげ、セ・リーグの最多勝投手に輝きました。とりわけ阪神戦に強く、このシーズンだけでも対阪神戦は9勝3敗の成績。中日の20年ぶりのリーグ優勝に大きく貢献しました。
 社会人を経て、1969年にドラフト4位で中日に入団。その投球間隔の短さには、誰もが目を見張りました。あまりに次から次へとボールを投げ込むため、ノーサインで投げていたとの説も。しかしちゃんと返球時にキャッチャーを見ていたというから驚きです。当時、松本投手が登板する試合の中継では、放送開始時にすでに7回だったこともあり、試合が早く終わった時のための予備番組を用意するのが必須だったそうです。「ボール球を投げるのは時間のムダや」「投げる俺がどこへ行くかわからんボールやから、打者だって打てるわけがない」……言葉の一つ一つが名言です。
 
 

【プロ野球 ジョン・シピン選手】
 1970年代に大洋・巨人で活躍したシピン選手。ライオン丸と呼ばれ、女性から子どもまで夢中になったヒーローでした。1972年3月の来日時、空港に降り立ったシピン選手が持っていたのは、野球用具ではなく釣竿。1月に契約しながら度重なる来日延期もあったため、大洋のフロント陣は「本当にやる気があるのか」と不安になったそうです。というのもシピン選手は、獲得リストにあがった選手との交渉失敗を受けて、急きょ探した代替要員。メジャー実績もわずか1シーズンしかなく、魅力は若さだけという状況でした。ところが、わずかなオープン戦出場の間に、日本の野球に見事な適応を見せます。コンスタントに3割前後の打率を残し、2塁を任されると、とんでもない強肩も披露。ダブルプレーの数が倍増しました。
 シピン選手といえば、守備の際にもヘルメットをかぶっていたことで大きな話題に。大人たちからは失笑を買いましたが、子どもの目にはその姿が格好良く映ったのでしょう。マネをする子どもが続出。ヘルメットの売り上げが急増したといわれています。 
 


来週のスポーツ伝説は……

 5月11日(月) プロ野球 福田永将選手
 5月12日(火) プロ野球 矢野燿大選手
 5月13日(水) プロ野球 飯田哲也選手
 5月14日(木) 柔  道 中村兼三選手
 5月15日(金) 競  歩 鈴木雄介選手

                       以上の5選手をご紹介します。
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