スポーツ伝説

2月22日~26日の放送内容

【プロ野球 鈴木大地選手】

 去年、プロ3年目にしてキャプテンの大役を任された千葉ロッテマリーンズの鈴木選手。この突然の就任劇は、2013年シーズン後の納会で、鈴木選手自身が「もしチャンスがあるならキャプテンをやってみたい」と伊東勤監督に直訴したのがきっかけでした。
 2011年のドラフト3位で千葉ロッテに入団。プロ2年目の13年はショートに定着し、チームで唯一の全144試合出場を果たしてベストナインに輝きました。打率2割6分3厘・ホームラン6本・50打点は決して飛び抜けた数字ではありませんでしたが、契約更改では推定1000万円のプラスと大幅アップ。1試合に欠場しただけでほぼ全試合に出場し、シーズンを通じてチームを引っ張ったことが高く評価されました。



【プロ野球 福井優也投手】

 プロ野球のキャプテンは野手が務めることが多いですが、球団によってはチーム全体のキャプテンとは別に、投手陣のキャプテンを置くケースがあります。今シーズンから広島カープの投手キャプテンに就任したのが、福井投手。
 福井投手は早稲田大学で日本ハム・斎藤佑樹投手、西武・大石達也投手と同期で、10年のドラフトでは3人全員が1位指名を受けました。広島に入団した福井投手は11年4月の巨人戦で初登板・初先発を果たすと、その試合で見事プロ初勝利。1年目はシーズンを通してローテーションを守り、8勝10敗とまずまずの成績でした。しかし2ケタ勝利を期待された2年目はわずか2勝。3年目は1勝も挙げられず、4年目は4勝。成績が伸びなかった原因は、制球難とメンタルの弱さでした。そんな福井投手に自信を与えてくれたのが、去年からカープに復帰した元メジャーリーガー・黒田博樹投手。「お前を見てると昔の自分とダブる」「今でも投げる時は緊張するんだよ」という黒田投手の言葉に、気が楽になったという福井投手。去年は課題の制球難も解消されて9勝6敗。投手陣のキャプテンに就任した6年目の今シーズンは、気負わずに兄貴分として投手陣を引っ張っていくつもりだそうです。
 

 
【マラソン 佐々木七恵選手】

 女子マラソン界の草分けとして知られる佐々木選手は、大学性の頃は中距離選手でした。マラソンは卒業後に始め、1979年に始まった第1回東京国際女子マラソンで初マラソンを経験。当時は教員の仕事をしていましたが、もっと記録を伸ばそうと瀬古利彦選手を育てた中村清エスビー食品監督のもとを何度も訪ね、教えを乞いました。その努力が実り、81年のボストンマラソンでは、当時の日本最高記録である2時間40分56秒を樹立。82年に教員を辞めてエスビー食品に入り、本格的に中村学校の門下生となりました。
 中村監督の厳しい指導に食らいついて行った佐々木選手は、83年の東京国際マラソンで日本人選手として初優勝。念願のロサンゼルスオリンピック出場権を獲得しました。そのオリンピックでの結果は19位に終わったものの、有森裕子さんが「佐々木さんを目標にしながら後を追った」と語ったように、常に努力を怠らない姿勢は後輩たちにも継承されています。
 
 

【マラソン 中山竹通選手】

 日本のマラソン大会として70年近い歴史を持つ、伝統の福岡国際マラソン。この大会で伝説の走りを見せたのが、中山選手でした。88年にダイエー陸上部の創設メンバーとして入部、この年12月に行われた福岡国際マラソンでマラソンデビューを果たします。この時は14位でしたが、翌年の同じ大会では27㎞地点以降独走でゴールイン。嬉しさのあまり飛び跳ねながらのゴールだったため、普通に走っていれば当時日本人5人目の2時間9分台が出たのではと言われました。実際、翌85年4月のワールドカップ広島大会では、当時の日本記録となる2時間8分15秒をマーク。一躍日本のエースとなった中山選手は、88年のソウルオリンピックでのメダルを期待されます。
 そのオリンピック代表選考レースがあった87年の福岡国際マラソンでは、中山選手はハイペースで飛ばし、2時間8分18秒の大会タイ記録で優勝。しかしオリンピックでは、3位に6秒差の4位で惜しくもメダルを逃しました。続く92年のバルセロナオリンピックにも連続出場しますが、この時もデッドヒートの末にまたもや4位。メダル獲得はなりませんでしたが、駆け引き重視ではなく、常にトップで駆け抜けることを目指した走りは、今なお人々の記憶に深く刻み込まれています。

 

【マラソン 瀬古利彦選手】

 1970年代後半から80年代にかけて活躍し、現在も指導者・解説者として活躍中の瀬古さんは、国内外の大会を次々に制覇。オリンピックにも2度出場した伝説のランナーです。瀬古選手が注目されるようになったのは、大学時代に出場した福岡国際マラソン。いきなり日本人最高の5位に入賞すると、翌78年には2時間10分21秒のタイムで日本人選手として8年ぶりの優勝を果たしました。79年4月には、初の海外遠征となるボストンマラソンで2位入賞。12月には宗兄弟とのデッドヒートの末、福岡国際マラソン2連覇を果たし、翌80年のモスクワオリンピック出場権を獲得しました。金メダルへの期待が高まりましたが、ソ連のアフガニスタン侵攻に抗議し、アメリカがモスクワオリンピックをボイコット。日本も追随することとなり、瀬古選手の夢は思わぬ形で断たれてしまいます。4年後のロサンゼルスを目指すべく、大学時代の恩師・中村監督と共に、実業団の名門・エスビー食品に入社。その年の福岡国際マラソンで3連覇、81年のボストン、83年の東京国際・福岡国際も制し、マラソン5連勝という無敵の状態で84年8月のロサンゼルスオリンピックを迎えましたが、初めて経験する真夏のマラソンでまさかの14位と惨敗してしまいます。
 しかし、これで終わらないのが瀬古選手。86年4月にロンドンマラソンで日本人初優勝を果たすと、10月にはシカゴマラソンも制覇。87年にはボストンも制し、88年のびわ湖毎日マラソンまで4連勝。ソウルオリンピック出場を決めました。しかしすでに選手にピークを過ぎていた瀬古選手は、ソウルでも9位。結局オリンピックでの入賞は果たせませんでした。それでも、マラソンでの通算成績15戦10勝は、不滅の金字塔です。
 


 来週のスポーツ伝説は……

  2月29日 プロ野球 森唯斗投手
  3月 1日 プロ野球 有原航平投手
  3月 2日 プロ野球 山崎康晃投手
  3月 3日 プロ野球 細川亨捕手
  3月 4日 プロ野球 後藤 G 武敏選手

                       以上の5選手をご紹介します。
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