スポーツ伝説

7月13日~17日の放送内容

【大相撲 武双山正士関】

 父親がアマチュアの強豪力士だった武双山関は、茨城の自宅に作った土俵で子どもの頃から厳しい稽古を受けて育ちました。水戸農業高校ではインターハイと国体を制覇。専修大学に進むと、3年生で全国制覇を果たし、アマチュア横綱に輝きます。その後プロへの憧れから大学を中退し、武蔵川部屋に入門。1993年1月の初場所で、幕下60枚目格 付け出しからデビューしました。幕下は2場所連続全勝優勝であっさり通過し関取に。十両も2場所で突破し、93年9月の秋場所で早くも新入幕を果たします。幕内でも快進撃は止まらず、初土俵から8場所目、94年3月の春場所の番付で早くも新関脇に昇進。史上最速記録で、あまりの出世の早さに“平成の怪物”と呼ばれるようになりました。
 しかしその後は、 相次ぐ故障で足踏みが続きます。満身創痍の状態でも弱音も吐かずに土俵に上がり続け、2000年1月の初場所、関脇で13勝2敗の成績を挙げて悲願の初優勝。続く3月の春場所も12勝を挙げ、場所後に大関に昇進が決まったのです。初土俵から、実に7年後のことでした。ところが、今度は腰痛に悩まされ、新大関として出場するはずだった5月の夏場所は休場。続く7月の名古屋場所は4勝しか挙げられず、在位2場所で大関陥落という短命記録を作ってしまいます。しかし続く9月の秋場所は千秋楽で10勝目を挙げ、1場所で大関に復帰。その後は引退するまで25場所、大関を務めました。
  
  

【大相撲 安芸乃島勝巳関】

 安芸乃島関は地元・広島で大相撲の巡業が行われた際、大関・初代貴ノ花関から声を掛けられ、入門を決意。14歳で、貴ノ花関が引退して興したばかりの藤島部屋(のちの二子山部屋)に入門します。毎日100番以上のぶつかり稽古を積み、その甲斐あって、1987年7月の名古屋場所で十両に昇進。弱冠20歳で、藤島部屋初の関取になったのです。
 88年3月の春場所で新入幕すると、9月の秋場所で横綱・大乃国関と対戦。ここで初金星を挙げた安芸乃島関は、以後、千代の富士関・北勝海関・旭富士関・曙関・武蔵丸関ら、対戦した6人の横綱すべてから金星を挙げました。合計16個の金星は、今でも歴代最多です。



【大相撲 高見盛精彦関】

 日本大学時代にアマチュア横綱となり、卒業後に角界入りした高見盛関。取組前に拳を強く握りしめ、顔や胸を叩く姿でもおなじみで、その動きが映画の『ロボコップ』に似ていることから、それがニックネームにもなりました。高見盛関は、本番でこそ力を発揮するタイプの力士。相撲界では、稽古場で強く本番で弱い力士を“稽古場横綱”といいますが、高見盛関はその逆。稽古場では格下の相手にもよく負けたため、兄弟子で横綱の曙関はそんな高見盛関のことを“稽古場序二段”と名付けました。
 高見盛関が土俵上で取組前に、拳を握って自分の顔を叩く理由について、恐怖心を振り払うため、と語っています。「自分を鼓舞することで、自分の中から相撲の力が出てきて助けてくれる」という高見盛関。現在は14代東関として東関部屋を継承し、後進の育成に当たっています。



【大相撲 寺尾常史関】
 
 寺尾関は、相撲一家の三男。父親は元関脇・鶴ヶ嶺関、後の井筒親方で、二人の兄も力士。井筒三兄弟として名を馳せた角界のサラブレッドです。初土俵以来、1997年3月の春場所で途中休場するまで、1359回連続出場。39歳まで現役を続け、“鉄人”と呼ばれました。小兵力士で、現役時代の体重は最大で120kg。大型力士との体格差を補うために考えたのがウエイトトレーニングなどの近代的なトレーニングを積むことでした。得意技は、突っ張り一筋。鍛えぬいた筋力から繰り出す回転の速い突っ張りで、番付を上げていきました。
 昭和の大横綱・千代の富士関に初めて勝った89年初場所後の番付発表で、寺尾関は初めて西の関脇に昇進。すでに東の関脇だった兄・逆鉾関と、夢だった初の兄弟同時関脇を達成しました。逆鉾関は昨年、58歳の若さで亡くなりましたが、寺尾関は現在は錣山親方となり、兄弟が果たせなかった大関獲りの夢を弟子の阿炎関らに託しています。



【大相撲 旭道山和泰関】
 
 180㎝の長身ながら、体重は入門当時、わずか58kgだった旭道山関。もともと胃腸が弱く太りにくい体質だったため、周囲から「お前は上には上がれない」と言われたこともあったといいます。それでも毎日の食事と懸命な稽古で地道に体重と力をつけ、初土俵から8年の長い道のりを経て十両に昇進。新十両となった1988年7月の名古屋場所で、いきなり10勝5敗の成績を挙げ優勝決定戦に進出しました。
 ちょうどその頃、旭道山関に目をかけ、熱心に稽古をつけてくれたのが、同じ軽量力士だった横綱・千代の富士関です。大横綱の胸を借りて稽古を重ねた成果か、旭道山関はその後も好成績を続け、わずか3場所で新入幕に。この時の体重は98kgでした。しかし軽量力士とは思えない真っ向勝負としぶとい相撲から、出身地の鹿児島にちなみ“南海のハブ”の異名を取り、人気を集めました。小兵力士に似つかわしくない激しい相撲ばかりだったため、ケガが絶えなかった旭道山関。しかし通算出場1089回で、休場は一度もなし。それこそが、旭道山関にとって何より誇れる勲章だったのです。


        
来週のスポーツ伝説もお楽しみに!!
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