スポーツ伝説

5月18日~22日の放送内容

【プロ野球 堀幸一選手】

 複数のポジションを守り、打順に合わせて自分の役割をきっちりとこなす仕事人をユーティリティープレーヤーと呼びます。その中で印象的な存在なのが、ロッテ一筋23年の堀幸一選手。1987年のドラフト3位でロッテに入団すると、2年目の89年から1軍へ。オープン戦でデッドボールを受けて退場した選手に代わり代走で出場し、次の打席でホームランを放ちました。この頃から勝負強さが際立ち始め、圧巻は4年目の91年。4番に座ることを期待して獲得したディアズ選手が開幕から大不振となり、金田監督が4番に指名したのは堀選手。その期待に目の覚めるような活躍で応え、“12球団で一番給料が安い4番バッター”と呼ばれるようになりました。
 95年から、ロッテの監督はバレンタイン監督に交代。データを重視し、相手によって打線を組み換え、選手には複数のポジションを守ることを要求しました。これに最も応えたのは、堀選手。堅実なプレーを評価されてショートにコンバート。打率でもリーグ2位の3割9厘という高い数字を残しています。98年には、通算で1番から9番までの全打順本塁打を達成。オフにはすでにメッツの監督となっていたバレンタインさんからメジャーへの誘いも受けました。この話が実現していたら、メジャーリーグ初の日本人野手は堀選手だったかもしれません。

  

【プロ野球 高木勇人投手】

 今シーズン、巨人ファンを歓喜させているのがルーキーの活躍。巨人が昨年のドラフト3位で指名した高木勇人投手は、ルーキーながら開幕1軍。しかも先発ローテーションの座を勝ち取りました。開幕直後、調子が出ないチーム状況の中で、初登板から3戦3勝。これは球団では15年ぶりの大記録です。
 去年のドラフト会議では、高木選手は隠し玉的存在でした。というのも、社会人時代にはこれと言った実績も特徴もなかったからです。しかし巨人のスカウトが6年間も追い続けていたという逸材。持ち球はストレート・シュート・フォーク・カーブ・スライダーに加えて、高木選手独特のカットボール。ホームベースの横幅ひとつ分、斜め方向へ滑って行く感覚だというこのカットボールは、原監督も大絶賛。監督自ら“高木ボール”と名付けました。 
 


【プロ野球 川端慎吾選手】

 2001年以来、14年ぶりのリーグ制覇を目指すヤクルト・スワローズが好スタートを切りました。特に活躍が目立つのは、“ツバメのプリンス”の異名を持つ川端慎吾内野手です。昨シーズンは、自身初めて規定打席に到達しての打率3割をマーク。ヒットメーカーとして、セ・リーグを代表する存在に成長しました。ホームランに関しては、昨シーズンまで通算9年で25本。それが2011年、驚くようなホームランを放ちます。第1号がソロホームラン、2号がツーラン、3号が3ランで、4号はなんと満塁ホームラン。しかもこのシーズンのホームランはこの4本のみでした。ソロから順番にホームランを放った選手は、恐らく日本のプロ野球史上初めてと言われています。
 “ツバメのプリンス”にはもうひとつ、“ガラスのプリンス”という異名もついています。あまりに故障が多すぎるからです。1年目の春季キャンプから「ぼくの引退を早めるのはこいつだ」と、現役時代の宮本慎也選手も大絶賛でしたが、あまりの故障の多さから「レギュラーを譲ろうとしたけどもうやめた」と前言撤回。その宮本選手が引退した2013年、左足首の手術から7月に復帰した川端選手は、終盤に大活躍して宮本選手をホッとさせました。翌2014年には、自己最多の142試合に出場しています。
 


【競泳 渡部香生子選手】

 競泳の日本代表選考は、順位と派遣基準タイムがあらかじめ設定してある一発勝負。今年の夏、ロシアのカザンで開催される世界選手権の選考会を兼ねた日本選手権で、渡部香生子選手は平泳ぎ50m、100m、200m、200m個人メドレーで4冠を達成しました。「狙ったところで狙ったタイムを出す難しさを感じた」と振り返りつつも、夏の世界選手権へ向け「気持ちの面でまだ成長できる」と、しっかりと前を向いています。
 転機となったのは、中学1年生の秋。ハードな練習をしすぎて右肩を痛めたことから、最も肩への負担が少ない平泳ぎに転向。平泳ぎは渡部選手が一番苦手としていた種目でしたが、それだけ伸びる可能性があると見方を変えました。キックに独自の工夫を重ね、オリジナルの“イカタコキック”が誕生。わずか2年で国内3冠を達成し、2012年ロンドンオリンピックに出場を果たしました。北島康介選手も「世界一美しいフォーム。マネしようとしても絶対にできない」と大絶賛。まだまだ伸び盛りの選手だけに、期待は募るばかりです。
 


【棒高跳び 西田修平・大江季雄選手】

 1936年ベルリンオリンピック陸上棒高跳びで、2人の選手が2つのメダルを半分にし、それをつなぎ合わせた友情のメダルが生まれました。西田修平選手と、大江季雄選手です。
 陸上棒高跳びが開催されたのは、1936年8月5日。早朝から天候が不安定で、午前にスタートした予選は何度も中断。ようやく決勝を迎えたのは、午後4時でした。決勝に残ったのは、日本選手2名とアメリカ選手3名。この中からいち早くアメリカのメドウス選手が金メダルを決め、続いて西田選手と大江選手の表彰台が確定しました。しかし長時間にわたる競技で2人の疲労は頂点に。そこで話し合いの末、2人は2・3位決定戦を辞退することを申し出、これが受理されたのです。ところが、公式記録は直前の失敗数から『2位・西田、3位・大江』。2人が銀メダルと確信していた西田選手はこれに驚き、表彰式で2位の表彰台を大江選手に譲ります。「ぼくは前回のロスで銀メダルを獲っているから今回は銅でいい。次の東京オリンピックで金メダルを獲って、金銀銅をコレクションするのだから」と。
 ところがその後、大江選手が銀メダルを持ち帰ったことに疑問を感じたお兄さんが、西田選手のもとを訪ね「銅メダルと交換して欲しい」と言って引き下がりません。そこで思いついたのが、メダルを2つに切断して繋ぎ合わせてしまおうという案。こうして生まれた友情のメダル。現在、西田選手のものは早稲田大学に。大江選手のものは秩父宮記念スポーツ博物館に寄贈されています。

 

来週のスポーツ伝説は……

 5月25日(月) プロ野球 山崎裕之選手
 5月26日(火) プロ野球 野田浩司投手
 5月27日(水) プロ野球 橋本到選手
 5月28日(木) 柔  道 古賀稔彦選手
 5月29日(金) 大 相 撲 2代目若乃花関

                       以上の5選手をご紹介します。
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