スポーツ伝説

6月15日~19日の放送内容

【ハンマー投げ 室伏重信選手】

 アジア大会5連覇、オリンピックには4大会で日本代表に選ばれた男子ハンマー投げの室伏選手。体が大きいという理由から投てき種目を始めると、高校3年生のインターハイで、ハンマー投げ・砲丸投げ・円盤投げの3種目で優勝。やればやるほど記録が伸びる面白さから、オリンピックに興味を持ち始めました。ところが大学生になると、ハンマーが高校より重くなったことで飛距離が落ちてスランプに。そこでフォームの大改造を図った室伏選手。これが功を奏し、室伏選手の投擲飛距離は大幅にアップ。25歳の時にはアジア人として初めて70mの大台を突破し、71m14の日本記録をマークしました。
 30歳になる1975年には、これまでの3回転投げから、4回転投げに取り組みます。30代といえば肉体的な衰えが始まりますが、逆にここから記録を伸ばし、日本記録を塗り替えること実に7回。生涯ベストは84年に38歳でマークした75m96。この記録は14年後の98年、息子の室伏広治選手に破られるまでの日本記録でした。



【柔道 山下泰裕選手】

 1980年のモスクワオリンピック当時、山下選手は23歳。前年には世界選手権初優勝、全日本選手権は4連覇と、まさに向かうところ敵なし。モスクワは金メダル確実と言われていました。ところが、日本は大会参加をボイコット。山下選手の金メダルは幻となりました。その絶望から4年後、84年のロサンゼルス・オリンピックで山下選手はついに夢の舞台に立ちますが、今度は大きな試練に見舞われます。無差別級・2回戦、山下選手が西ドイツのシュナーベル選手に内股を仕掛けた際、右足ふくらはぎの肉離れを起こしたのです。
 左に組む山下選手にとって、軸足の右足を負傷したことはまさに致命的でした。それでも相手に悟られぬよう、平静を装い勝利。準決勝では、格下のフランス選手に開始早々、大外刈りで「効果」を奪われ苦戦しますが、大内刈りと抑え込みでなんとか逆転勝利を飾りました。決勝戦の相手は、山下選手より二回りも大きいエジプトのラシュワン選手。開始から強気に攻めてくるラシュワン選手でしたが、山下選手が痛めている右足を狙いに行かず、正面から戦いを挑んできました。山下選手は足をかばいつつ、相手のスキを見て横四方固めで抑え込み。そのまま30秒が経過し、山下選手は一本勝ちで悲願の金メダルに輝きました。ラシュワン選手には試合後、国際フェアプレー賞が贈られています。
 


【テニス 神和住純選手】

 神和住選手は、両親が軟式テニスの日本チャンピオンというテニス一家に育ち、中学までは両親の影響で軟式テニスに励んでいました。硬式テニスを始めたのは、高校に入学してから。軟式とは打ち方が異なるバックハンドの猛練習を来る日も来る日も繰り返した結果、誰よりもバックハンドが上手くなり、硬式転向後わずか2年半でインターハイを制覇。大学でもインカレ3連覇。社会人では全日本選手権3連覇と、トップ選手に登りつめたのです。大学卒業後は、会社員として働きながらテニスを続けていた神和住選手。全日本3連覇を果たした1973年、25歳の時に日本人では戦後第1号のトーナメントプロになることを決意し、海外ツアー挑戦の生活が始まりました。
 神和住選手がプレーしていた当時は、日本に芝のテニスコートがない時代で、レベルの高い海外勢の前に厳しい戦いが続きました。しかし74年、神和住選手は、ウィンブルドンと全米選手権で優勝経験を持つアメリカの強豪、スタン・スミス選手を相手に、1年で2度も勝利を収めます。以来、世界中のテニス関係者に“ジャイアントキラー”として一目置かれるようになったのです。また、国別対抗戦のデビスカップには、18歳で初めて代表選手に選ばれて以降日本人史上最多記録となる37戦に出場。86年に38歳で引退するまで、日本のテニス界を牽引し続けました。
  


【マラソン 君原健二選手】
 
 かつては“日本のお家芸”といわれた男子マラソン。その栄光の歴史を築いたひとりが、1964年の東京オリンピックを皮切りに、68年のメキシコシティ大会、72年のミュンヘン大会と、オリンピック3大会連続出場を果たした君原選手です。高校時代までは全国的には無名の存在でしたが、卒業後に入社した八幡製鉄陸上部で才能が開花。入社3年目で出場した初マラソンで当時の日本最高記録を叩き出すと、代表選考会では優勝を飾り、東京オリンピックの日本代表に選ばれたのです。しかし「日本のエースは君原」「メダル候補」という異様なほどの期待がプレッシャーになったのか、東京オリンピック本番では8位でフィニッシュ。メダルを逃した君原選手に代わって、銅メダルに輝いたのは、同じ学年の円谷幸吉選手でした。
 君原選手にとって2度目のオリンピックとなる、68年のメキシコシティ大会。ところが本番9ヵ月前、ライバルとして切磋琢磨してきた円谷選手の突然の訃報が飛び込んできました。10月、オリンピックのスタート地点に立った君原選手は、「今日は円谷さんのために走ろう」と決意。ゴール近くで後続の選手に迫られながらもなんとか逃げ切り、執念の銀メダルを獲得しました。4年後のミュンヘンでは5位入賞を果たし、32歳で現役を引退した君原選手。その後も市民ランナーとして、各地のレースで健脚を披露し続けました。


 
【フィギュアスケート 上野純子選手】
 
 上野選手の母親は、元フィギュアスケートの選手。戦争の影響で中止された1940年の札幌冬季オリンピックで、「幻の代表選手」に選ばれた実力の持ち主でした。その影響で、上野選手も10歳から本格的にフィギュアスケートを開始します。戦前の日本フィギュア界を牽引した稲田悦子さんに師事すると、13歳になった56年、全日本選手権で初出場・初優勝の快挙を達成。以降、4年連続で全日本女王となったのです。
 60年、17歳になった上野選手は、念願叶ってアメリカのスコーバレーで開催された冬季オリンピックに出場。当時は海外勢とのレベルの差が大きく、本番での演技は女子シングルで17位という成績でしたが、上野選手は別の形で大きな注目を浴びました。なんと、オリンピック日本選手団の旗手に指名されたのです。それまで、オリンピックの日本選手団旗手は、スポーツ界に貢献してきたベテラン選手が担当してきました。上野選手は当時まだ高校2年生で、17歳。女子選手が任されたことも、日本では夏冬を通じて史上初のことでした。


        
来週のスポーツ伝説は……

6/22(月) プロ野球 広澤克実選手
6/23(火) プロ野球 河野博文投手
6/24(水) プロ野球 栗橋茂選手 
6/25(木) プロ野球 笘篠誠治選手
6/26(金) プロ野球 清川栄治投手 
                       
お楽しみに!!
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