スポーツ伝説

7月13日~17日の放送内容

【プロ野球 水野雄仁投手】

 高校時代は甲子園で2度の全国制覇。“阿波の金太郎”と呼ばれ、当時から人気と実力を兼ね備えた選手でした。巨人入団後は先発・中継ぎ・抑えとフル回転。投手ながら、「野手でも一流になっただろう」と言われる素晴らしいバッティングセンスを随所に披露しました。
 1988年7月、東京ドームで初のオールスターゲームが開催。水野投手にとっては、これが最初で最後のオールスター出場となりました。王監督に推薦されての思いがけない出場。しかし24日の第1戦は、阪急のブーマー選手に勝ち越し打を許し、ほろ苦い球宴デビューとなりました。そんな状況で迎えた第3戦、両チームは総力戦の展開に。同点で迎えた延長12回、広島の正田選手が3塁打を放ち、サヨナラの絶好機が到来。続くヤクルトの広沢選手がフォアボールを選んでチャンスが拡大するも、続く打順は大洋の中山投手でした。ところが、この時すでにセ・リーグは野手を使い切ってしまった状態。困った王監督は、水野投手を代打に指名します。これにはマウンド上のロッテ守護神・牛島投手も、ピッチャーに打たれては、と真剣そのもの。巧みな駆け引きの末、ついに水野投手はセンターへのフライを放ちます。これがサヨナラ犠牲フライとなり、水野投手はヒーローに。投手のサヨナラ打は、史上初めてのことでした。水野投手は優秀選手にも選出され、夢のオールスター伝説を作ったのです。
  


【プロ野球 松井裕樹投手】

 19歳、12球団最年少守護神として、東北楽天ゴールデンイーグルスの松井投手が大活躍しています。2年目を迎えた今シーズン、抑えを任せるはずだったミコライオ投手が故障し、チームには守護神が不在となりました。これを受け、大久保監督はいきなりマスコミに向け、「抑えは松井で行く」と発表。それを伝え聞いた松井投手は「順番が違う」と、数日間は傍目からも分かるほどにムッとしていました。それだけ、先発への思い入れが強かったのです。でも今では、「リリーフは面白い。今年は抑えで頑張って、将来は先発ローテーションを任されるようにしたいです」と既に前を向いています。
 高卒2年目での2桁セーブは、中日・小松投手、西武・渡辺久信投手、オリックス・平井投手に続く記録。ルーキーイヤーの昨年は4勝8敗だったものの、投球回数116イニングを上回る126奪三振をマークしており、これはパ・リーグ5位の記録でした。オフにはヤンキースで活躍する田中将大投手や、チームのエースである則本昂大投手から自主トレの誘いを受け、プロの技と厳しさを叩き込まれた松井投手。ちょうど50人目のドラフト1位指名高卒左腕として、今後ますますの活躍が期待されます。
 

 
【メジャーリーグ サチェル・ペイジ投手】

 メジャーリーグ史上、通算最多勝利記録はサイ・ヤング投手の511勝。しかし実は、通算2000勝以上をあげた恐るべき投手がいました。野球史上最高の選手の一人、ペイジ投手です。バットやボールを買えない貧しい少年時代を経て、18歳でセミプロのモービル・タイガースに加入すると、いきなり才能を開花。驚異的なスピードと抜群のコントロールで30勝1敗を記録します。投球練習では、ホームベース上にマッチ箱を並べ、マウンドから球を投げて次々とマッチ箱を倒すという離れ業を披露。当時は記録システムが整っておらず、いずれも伝説の域を出ませんが、28連続三振や、事前に連続三振宣言をして実際に達成したり、球速が170キロあったという噂もあります。
 1930年には、メジャーリーグ選抜と対戦。22奪三振の完封を達成しますが、残念なことに、スーパースターのベーブ・ルース選手との対戦は実現しませんでした。しかしベンチで試合を見守っていたルース選手の表情は青ざめていたと、チームメイトは語っています。1947年になると、ロサンゼルス・ドジャーズがジャッキー・ロビンソン選手と契約し、初の黒人メジャーリーガーが誕生。翌年のシーズン途中、ペイジ投手へもメジャーリーグからオファーが届き、42歳で史上最高齢新人投手として、クリーブランド・インディアンズに入団しました。48年7月9日のデビュー戦は、2イニング無失点。続く試合では先発起用され、見事完封勝利。この年6勝をあげてリーグ優勝に貢献しました。52・53年にはオールスター戦にも連続出場。59歳までマウンドに立った、まさに伝説の選手です。



【女子柔道 上野雅恵選手】

 2004年アテネ、08年北京とオリンピック2大会連続で金メダルを獲得した上野選手。柔道家の両親の下、6歳から徹底的な英才教育で鍛え抜かれました。高校卒業後は実業団で活躍し、シドニーオリンピック70キロ級の代表に。ところが重圧に負けたのか、減量をしたわけでもないのに、当日の体重は66キロ。この体重減がスタミナを奪い、期待を裏切る3回戦敗退という結果に終わりました。アテネへ向けては、さらに多くの国際大会を経験。それでもやはり、オリンピックはムードが全く違いました。最初の試合はなかなか技が出ず、いきなり指導をもらいます。しかし寝技で決めると、2回戦以降は少しずつ調子を上げて行きました。準決勝でオーストラリアのアーラブ選手を大外刈りで下し、決勝はオランダのボス選手に袖釣り込み腰で一本勝ち。ついに念願の金メダルを手にしたのです。
 しかしその後は、試練の連続でした。05年の世界選手権でまさかの初戦敗退を喫すると、左ひじの脱臼、腸閉そく、ひざの故障を次々と発症。一度は代表を外されたこともありました。そんなドン底から這い上がっての北京オリンピック代表。決勝でキューバのエルナンデス選手相手に、朽木倒しで一本勝ち。日本人女子3人目のオリンピック連覇を成し遂げたのです。
 その後、妹の順恵選手が、12年ロンドンオリンピック柔道63キロ級の銅メダリストとなりました。日本の姉妹でのメダリストは、レスリングの伊調馨・千春選手に続いて2組目の記録です。



【女子柔道 塚田真希選手】
 
 2004年アテネオリンピック、柔道女子78キロ超級で、塚田選手は日本の女子選手初の世界大会での最重量級を制覇しました。アテネでの女子柔道は好調。しかし兄のように慕ってきた井上康生選手が前日の試合でまさかの敗戦。メダルもなしとなり、重苦しい空気の中、塚田選手は本番を迎えることになります。そんな時、塚田選手の脳裏に「弱気は最大の敵」という亡くなったお父さんの言葉が響き渡りました。気持ちを切り替えた塚田選手は次々と強敵を下し、抜群の切れ味で決勝へと駒を進めます。決勝の相手は、キューバのベルトラン選手。ここまでしたたかに勝ち抜いてきた31歳のベテランは、塚田選手の一瞬の隙をついて背負い落としで技ありに。そのまま抑え込みに入ります。もはや万事休すかと思われましたが、塚田選手は執念で体を入れ替え、逆に抑え込みへ。後ろけさ固めが決まり、みごと柔道史に残る大逆転をおさめたのです。 

 

来週のスポーツ伝説は……

 7月20日(月) プロ野球 有原航平投手
 7月21日(火) プロ野球 相川亮二捕手
 7月22日(水) プロ野球 豊田清投手
 7月23日(木) 柔  道 園田勇選手
 7月24日(金) 大 相 撲 柏戸関

                       以上の5選手をご紹介します。
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