スポーツ伝説

11月26日~30日の放送内容

【プロ野球 脇谷亮太選手】

 前向きなキャラクターと、ここぞという場面での勝負強いバッティングで、控え選手ながら存在感を示してきた巨人の脇谷選手。今シーズンは1軍昇格の機会がなく、9月に現役引退を表明しました。脇谷選手は2005年、大学・社会人ドラフト5巡目で巨人に入団。09年の中日ドラゴンズとのクライマックスシリーズ・第2ステージでは、第3戦に代打で出場。浅尾拓也投手から逆転ツーベースを放ち、クライマックスシリーズMVPに輝きました。
 守備では内野・外野どこでもこなすユーティリティ・プレーヤーだった脇谷選手。13年間の現役生活は主に控えでしたが、11年に初めて開幕スタメンに抜擢。しかし7月に右手を骨折し、折角つかんだレギュラーの座を他の選手に奪われてしまいます。更に右ヒジじん帯の再建手術も受けることになり、1年間、育成選手としてリハビリに専念。13年に復帰を果たしますが、そのオフに思いがけず西武へ移籍することに。新天地でも若手の手本となり活躍しましたが、15年オフに自身がFA権を取得すると、権利を行使して古巣・巨人に復帰。再び巨人に戻ろうと決断したのは、入団当時にプロ野球選手としての心構えを教えてくれた先輩・高橋由伸選手が引退し、巨人の新監督に就任するというニュースを耳にしたからです。人一倍チームを愛し、誰からも愛された脇役のひたむきなプレーは、この先もファンの記憶に深く刻み込まれることでしょう。


     
【プロ野球 松坂大輔投手】

 西武ライオンズのエースとして、1999年から8年間で108勝。2007年からは憧れのメジャーリーグに移籍し、ボストン・レッドソックスとニューヨーク・メッツで、通算56勝を挙げた松坂投手。15年からは、日本球界に復帰。福岡ソフトバンクホークスと契約しましたが、肩の故障に悩まされ、3年間で1軍登板はわずか1試合のみ。昨年のオフの契約満了と共に退団しました。その際、コーチ就任を断ってあくまで現役を続けることにこだわった松坂投手。新天地に選んだのは、西武に入団した際、2軍ピッチングコーチを務めていた森繁和監督が指揮を執る中日ドラゴンズでした。
 今年1月、キャンプイン直前に入団テストを受け合格。背番号は99、年俸は推定1500万円と、過去の栄光を忘れての再出発でした。開幕から先発登板を重ね、3試合目のマウンドとなった4月30日の横浜DeNA戦。ピンチをなんとか乗り切り、勝ち投手となった松坂投手。日本球界で実に12年ぶりの復活勝利でした。
   

   
【サッカー ガンバ大阪】

 1993年のリーグ戦開幕から、節目の25年目を迎えたJリーグ。この間、リーグ戦のシステムには様々な変遷がありましたが、中でも大きな転換期となったのが2005年です。この年から、J1のチーム数が18チームに拡大。すべてのチームとホーム&アウェーで対戦する、全34節の1ステージ制に変更されました。ようやく日本のプロリーグにも、ヨーロッパや南米など多くの海外リーグで採用されている制度が導入された年でしたが、その新たな制度がさっそく劇的なドラマを演出します。最終節を前に、5チームが優勝争いをくり広げる、かつてない大混戦となったのです。
 このとき首位に立っていたのは、初タイトルを目指すセレッソ大阪。勝ち点差1の2位が、こちらも初タイトルがかかったガンバ大阪。さらに、首位と勝ち点差2で浦和レッズ・鹿島アントラーズ・ジェフ千葉の3チームが追い、この上位5チームすべてに優勝の可能性があったのです。12月3日、どの会場も同じ時刻のキックオフで最終節が始まりました。その結果、勝ち点わずか1差でガンバ大阪が奇跡の逆転優勝を遂げたのです。
   
   
  
【サッカー 鹿島アントラーズ】
 
 「Jリーグの歴史に残る劇的な優勝」と語り継がれているのが、2007年の最終節です。首位に立っていたのは、攻守ともにハイレベルな選手を揃えていた浦和でした。10月下旬、残り5節となったところでは、2位・ガンバ大阪に勝ち点差6と、3位・鹿島に勝ち点差10をつけて首位を独走。一時は、早々に優勝を決めようかという勢いでした。
 ところが、アジアチャンピオンズリーグを勝ち進んだことで試合数と遠征が増え、疲労が蓄積したのか、浦和はJ1で急に失速。11月にアジアの頂点をつかんだ浦和でしたが、その直後に行われたJ1では、鹿島との直接対決で完封負け。その結果、わずか勝ち点差1で浦和が首位、2位鹿島、という状況で最終節を迎えたのです。勝てば優勝という浦和の相手は、J2降格が決まっていた最下位の横浜FC。一方、鹿島の相手は4位の清水エスパルス。大方の予想は、浦和優位というものでした。ところが浦和は、0対1でまさかの敗戦。一方の鹿島はホームで清水に3対0で快勝し、Jリーグ史上屈指の大逆転劇を成し遂げたのです。
   
 
 
【サッカー 川崎フロンターレ】
 
 3年ぶりに1ステージ制に戻って行われた17年のJリーグ。開幕前は、前年王者の鹿島アントラーズの連覇を予想する声が多くありました。これに待ったをかけたのが、川崎フロンターレです。川崎といえば、これまでリーグ戦でもカップ戦でも、いつもいいところまで残りながら、あと一歩で栄冠を逃し続けてきたチームでした。リーグ戦・天皇杯・カップ戦の国内3大タイトルでの2位は計8度。いつからか、“シルバーコレクター”と呼ばれるようになりました。
 このうち7つに関わっていたのが、チームの柱・中村憲剛選手です。16年にはリーグ最年長でのMVPを獲得した中村選手でしたが、どうしても手にできなかったのが優勝の栄冠。この年、9度目の正直でついに優勝が決まった瞬間、中村選手はピッチ上で泣き崩れました。終わってみれば、川崎はリーグ戦では8月から15試合負けなし。執念でつかんだ栄光でした。
  
 
  
来週のスポーツ伝説もお楽しみに!!
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