スポーツ伝説

5月22日~26日の放送内容

【藤井寺球場】

 かつてプロ野球パ・リーグを盛り上げた、近鉄バファローズ。2004年の球界再編でオリックスに吸収合併される形でチームは消滅し、その本拠地だった藤井寺球場も翌年1月にその歴史に幕を降ろしました。藤井寺球場が完成したのは1928年。そしてこの地に待望のプロ野球球団が誕生したのは、22年後の50年。セ・リーグとパ・リーグ、2リーグ分立をきっかけに創設された近鉄パールス、のちの近鉄バファローズが本拠地として使用を始めました。当初は照明設備がなく、「藤井寺球場に照明設備を」というのは、近鉄球団にとっての悲願ともいえました。ナイトゲームを開催したい、という理由以外に、照明設備がなければ、オールスターゲームや日本シリーズの開催資格もなかったからです。
 甲子園のアイドル、青森県・三沢高校の太田幸司投手がドラフト1位で近鉄に入団した70年。この勢いを受けて、藤井寺球場の大規模な改修工事計画が発表されました。しかし球場の立地が大阪のベッドタウンである住宅地の中心部だったため、ナイター開催による騒音を気にした地域住民が照明設置に反対。その後も、度重なる地域住民との話し合いや裁判を経て、ようやく照明設備が完成したのは84年のことでした。待ちに待ったオールスターゲームが開催できたのは、翌85年のこと。そして、日本シリーズが開催されたのは89年です。その後、97年に近鉄の新たな本拠地・大阪ドームが完成。藤井寺球場での日本シリーズ開催は、結局この1回だけとなってしまいました。
   

   
【ナゴヤ球場】

 戦後間もない1948年、中日ドラゴンズの本拠地として名古屋市内に建設された中日スタヂアム、通称・中日球場は、現在のナゴヤ球場の前身です。わずか45日間の突貫工事で建設された鉄筋木造のこの球場は、翌49年からさっそくプロ野球の公式戦で使用されるようになりましたが、開場から間もない51年、試合中に観客のタバコの不始末が原因でネット裏から火の手が上がり、球場は全焼。死者を出す惨事となりました。この反省を踏まえ、翌52年に球場を鉄筋コンクリート作りにする再建工事が完了し、53年にはナイター設備も完成。そして54年、中日はセ・リーグを初めて制し、パ・リーグ王者・西鉄ライオンズとの日本シリーズに臨みます。シリーズは最終戦までもつれこみ、中日球場で行われた第7戦、中日はエース・杉下茂投手の奮投で勝利。初の日本一に輝きました。73年、球場の運営会社が倒産したことをきっかけに、76年から球場の名称がナゴヤ球場に変更。88年10月7日、ヤクルト戦に勝った中日は4度目のリーグ優勝を決めました。
 そんなナゴヤ球場に、日本中の野球ファンの目が注がれたのが、球史に残る「10.8同率決戦」です。94年10月8日、中日と巨人は直接対決1試合を残して同率首位に並び、最終戦で勝った方が優勝という状況に。しかし地元で6年ぶりの優勝を願う中日ファンの願いも虚しく、勝ったのは長嶋茂雄監督率いる巨人でした。その2年後も、両チームは優勝を争います。96年10月6日、巨人は中日との直接対決に勝てば優勝、という状況で再びナゴヤ球場へ。しかもこの試合は、翌年からナゴヤドームへの本拠地移転が決まっていたため、この球場で行われる最後の一軍公式戦でした。中日は絶対に優勝を阻止すると意気込みましたが、結果は巨人が勝利。中日ファンにとってはほろ苦い最後となりました。

   

【ゲーリック球場】
 
 ここ数年、観客動員数を大幅に増やしている、横浜DeNAベイスターズ。その本拠地である横浜スタジアムが誕生したのは、1978年。野球だけでなく、アメリカンフットボールやサッカー、コンサートなど、様々なイベントにも利用できる、日本初の多目的スタジアムとして産声をあげました。今ではあまり知られていませんが、今のスタジアムができる以前にも、実は同じ場所に野球場がありました。もともとはクリケット場でしたが、その場所で1896年に行われたのが、日本初の国際野球試合・旧制第一高校 対 横浜在住アメリカ人チームです。それゆえ、この場所を日本野球発祥の地と呼ぶこともあります。
 その後、1923年の関東大震災で、当時あった球場は崩壊。復興記念事業の一環として誕生したのが、横浜公園球場でした。34年には、ベーブ・ルースやルー・ゲーリックといった、当時のメジャーリーグ・オールスターが来日。横浜公園球場で日米野球親善試合が行われ、全日本は4対21で、大敗を喫しています。第二次世界大戦を経て、横浜公園球場はアメリカ進駐軍が接収。かつてこの地でプレーしたスター選手の名を冠して、ゲーリック球場と呼び名を変えました。その後、ゲーリック球場は横浜公園平和野球場と名称を変更。球場の老朽化に伴い、いまの横浜スタジアムへと姿を変えることになったのです。

  

【日生球場】

 1997年、大阪市にあった名物球場・日本生命球場、通称・日生球場がその歴史に幕を下ろしました。もともとは、日本生命が従業員用の福利厚生施設として50年に建設し、日本生命硬式野球部の練習場、また、近畿学生野球連盟の専用球場として使用されていました。その後、58年にナイター設備が完成すると、当時、本拠地の藤井寺球場にナイター設備がなかった近鉄バファローズが、第二のホームとして使用。プロ野球の試合も行われるようになりました。ただ、もともとプロが使う前提ではなかったため、外野までの距離は狭く、収容人員も最大で20500人と少なめ。このことが、のちに様々なドラマを産むことになります。
 プロ野球では、ファンの注目度が高いオールスターゲームや日本シリーズは、3万人以上収容できる球場で行うことが義務づけられています。そのため、日生球場はプロ球団の準本拠地でありながら、オールスターも日本シリーズも、一度も開催されませんでした。しかし通算317勝の大投手、近鉄の鈴木啓示投手は、日生球場で二度もノーヒット・ノーランを達成。外野フェンスまでが狭く、ホームランが出やすいことを考えると驚異的ですが、「ホームランを警戒して低目をつく投球を、日生球場が教えてくれた。二度のノーヒット・ノーランは、球場がくれたご褒美やった」と鈴木投手は語っていました。



【東京スタジアム】

 1962年、映画会社・大映の永田雅一社長が、東京の荒川区に私財を投じてオープンさせた球場が、東京スタジアムです。メジャーリーグ、サンフランシスコ・ジャイアンツのホーム球場だったキャンドルスティック・パークをモデルに、最新式の設備を導入。内野にも天然芝を敷き、スタンドはゴンドラ席もある二層式。入口にはスロープ。巨人の本拠地・後楽園球場よりも明るい照明灯も売り物でした。下町の夜空に浮かぶカクテル光線はひときわまぶしく、付いたニックネームが“光の球場”。大映所属の映画スターたちを引き連れ、ほぼ毎試合観戦に訪れる永田オーナーも、球場名物の一つでした。
 しかし開場1年目こそ賑わったものの、オリオンズがなかなか優勝争いに絡めなかったこともあり、次第に観客は減少。さらに映画産業が斜陽になり、大映本体が経営危機に陥ったことから、スタジアム経営も厳しくなってきました。そこで永田オーナーは、起死回生の一手として、69年にロッテと業務提携を結び、球団名を当時の東京オリオンズからロッテオリオンズに変更。これで息を吹き返したオリオンズは、翌70年に10年ぶりのパ・リーグ制覇を果たします。優勝が決まった瞬間、グラウンドになだれ込んだ地元のファンたちが真っ先に胴上げしたのは、永田オーナーでした。しかし歓喜もつかの間、その数ヵ月後の71年1月、永田オーナーは経営難からロッテに球団を正式に売却。72年には東京スタジアムの閉場も決定し、わずか11年でその歴史にピリオドを打ちました。 
  
   
   
来週のスポーツ伝説は……

  5月29日(月) テ ニ ス 清水善造選手
  5月30日(火) テ ニ ス 佐藤次郎選手
  5月31日(水) テ ニ ス B.ボルグ選手
  6月 1日(木) サッカー 2004-05年 リバプール対ACミラン
  6月 2日(金) サッカー 2005-06年 FCバルセロナ対アーセナル
            
                       お楽しみに!!

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