スポーツ伝説

2月28日~3月4日の放送内容

【パラアルペンスキー 狩野亮選手】

 父親の影響で、幼い頃からスキーに打ち込んだ狩野選手。小学3年生の時、交通事故で脊髄を損傷し車いす生活となってしまいます。大好きなスキーはできなくなりましたが、座って滑るチェアスキーに中学1年生で出会い、再び雪の上を滑ることができて夢中になりました。1998年の長野パラリンピックの中継を観て、パラリンピックを意識します。8年後の2006年、大学2年生になった狩野選手はトリノ大会でパラリンピックに初出場を果たし夢叶えますが、大回転は27位と惨敗に終わります。これで一念発起した狩野選手。10年のバンクーバーパラリンピックでは滑降で銅メダル。スーパー大回転で金メダルを獲得しました。しかしこの快挙は、新たな試練の始まりでもあったのです。
 狩野選手にとっても想定外だったという、バンクーバーでの金メダル。その後は世界一の座を守ろうと、これまで以上に順位を意識するようになり、狩野選手らしい「攻めのスタイル」を見失ってしまいます。極度のスランプに陥り、ソチパランピックの前年に行われた13年プレ大会では、滑降種目の3レース中2レースで大失敗。最後の3本目は勝負を諦めなんとかゴールと、散々な結果に終わりました。目を覚ました狩野選手は、14年のソチパラリンピック本番では本来の攻めのスキーに徹し、最初のレース・滑降で金メダルを獲得。翌日のスーパー大回転でも、バンクーバー大会に次ぐ連覇を達成しました。冬季パラリンピックでの連覇は、日本人初の快挙でした。
  


【パラアルペンスキー 鈴木猛史選手】

 8歳の時に交通事故で両足を失い、車いす生活となった鈴木選手。スキーが盛んな福島県の猪苗代町が地元だったこともあり、スキー教室で座って滑るチェアスキーと出逢います。1998年、小学4年生の時に長野パラリンピックの中継を観て、日本のチェアスキーの選手が表彰台に上がる姿に感動した鈴木選手は、本格的に競技に取り組み、中学3年生で世界選手権に出場。回転で3位に入って自信を付け、2006年、高校生の時にトリノパラリンピックに出場しました。しかしメダルは1つも獲れずに終わってしまいます。10年のバンクーバーパラリンピックでは、大雨の中で行われた大回転で銅メダルを獲得。みごと雪辱を果たしました。
 14年、3度目のパラリンピックとなったソチ大会。鈴木選手はまず滑降で銅メダルを獲得。勢いに乗って得意種目の回転に臨みました。実は回転が行われた3月13日は、くしくも鈴木選手が交通事故に遭った日。毎年母親から「きょうはあなたの第二の誕生日」というメールを貰っており、この日も母親からメールが届きました。それを見て、何かが起きる予感があったという鈴木選手。1本目は、ライバルに大きな差を付けられての2位でしたが、2本目は1分を切る好タイムで滑ってみせます。すると、1本目トップの選手が2本目は途中棄権となり、鈴木選手が逆転で金メダルに輝いたのです。

  
 
【パラノルディックスキー 新田佳浩選手】

 3歳の時、事故で左腕の肘から先を失った新田選手。小学3年生から、右腕一本でクロスカントリースキーを始めます。中学生の時、健常者に交じって一般の大会に出場していたところ、噂を聞いたパラノルディックスキー日本代表・荒井秀樹監督にスカウトされ競技人生が始まります。新田選手が事故に遭ったとき現場にいて、孫に大ケガをさせてしまったと悔やむ祖父の負い目がなくなるよう、「おじいちゃんに金メダルをかけてあげよう」と心に誓った新田選手。1998年、17歳で出場した長野パラリンピックはメダルに手が届きませんでしたが、続く2002年、ソルトレークシティ大会ではクロスカントリースキーのクラシカル5kmで銅メダルを獲得。しかし06年のトリノ大会では再びメダルなしに終わったため、新田選手は肉体改造に取り組み、これが実を結びます。10年、バンクーバー大会では、クラシカル10km・スプリント1kmの2種目を制覇。自身4度目のパラリンピックで、ついに悲願の金メダルを2つも手にし、祖父も大いに喜んでくれました。
 その祖父が亡くなると、新田選手は目標を見失い、14年のソチ大会は、目標の連覇はおろか、メダルなしに終わります。「今度は、息子たちに金メダルをかけてあげたい」と目標を変え、18年の平昌パラリンピックに臨んだ新田選手。クロスカントリースキーのクラシカル10kmでは残り1周の時点で3位でしたが、最後の力を振り絞って逆転。バンクーバー以来、8年ぶりの金メダルを獲得しました。

  

【パラノルディックスキー 阿部友里香選手】

 生まれたとき左腕に機能障害を負い、子どもの頃から右腕だけで日常生活を送ってきたパラノルディックスキー・阿部選手。2010年、バンクーバーパラリンピックのクロスカントリースキー競技をたまたまテレビで観て、自分と同じ腕に障害のある選手がストック1本で滑っている姿に興味を持ちました。 日本代表を率いていた荒井秀樹監督に自ら連絡を取って、本格的にクロスカントリースキーを始めます。その翌年、11年3月に東日本大震災が発生。阿部選手が住んでいた岩手県は大きな被害を受け、阿部選手も実家を津波で失いました。幸い家族は全員無事でしたが、スキーどころではなくなってしまった阿部選手。しかし後悔のないよう生きたいと被災した生徒を受け入れていた盛岡南高校に転入し、スキーを続けていく道を選びました。すると14年、阿部選手は高校3年生の時にソチパラリンピックに出場。クロスカントリースキーのクラシカル・15kmで8位となり、被災した地元の人たちに勇気を与える健闘を見せます。
 高校卒業後、上京して大東文化大学に進学した阿部選手。4年間みっちりトレーニングを積み、18年の平昌大会の代表に選ばれ5種目に出場しました。その中で、男女混合・4人1組で出場するクロスカントリースキーの混合10kmリレーでは、6大会連続出場のレジェンド新田佳浩選手たちとチームを組み、3走目を務めました。3位から2位に順位を上げる活躍を見せますが、惜しくもアンカーが抜かれ、メダルにあと一歩の4位に終わりました。今回、3度目の大舞台となる北京パラリンピックでは、クロスカントリーとバイアスロンの2種目で初のメダルを目指します。



【パラノルディックスキー 川除大輝選手】

 2001年に富山市で生まれた川除選手。先天性の上肢機能障害のため、生まれつき手足の指の一部がなく、ストックを持たずに雪の上を滑っています。小学生で雪上のマラソンと呼ばれるクロスカントリースキーを始めた川除選手は、中学2年生の時、北海道旭川市で行われたワールドカップにオープン参加。世界のトップ選手たちの滑りを間近で観て、本格的に競技を始めました。たちまち頭角を現した川除選手は、17歳のとき高校生ながら平昌パラリンピックに初出場。クロスカントリースキーの混合10kmリレーでアンカーを務め、メダルにあと一歩の4位に入賞しました。しかし、個人種目は10kmクラシカルが10位。1.5kmスプリントと20kmフリーは9位に終わり、初の大舞台は悔しさの残る結果となりました。
 技術がまだまだ未熟だと痛感した川除選手は19年、日本大学に進学します。名門のスキー部で、ハイレベルな部員たちと一緒に腕を磨く一方、ウエイトトレーニングを行ったり、体感を鍛えるなど肉体改造にも取り組みました。その地道な努力は結果となって表れます。19年2月、カナダで行われた世界選手権のクロスカントリースキー・ロングクラシカルで金メダルを獲得。さらに、3月に札幌で開催されたワールドカップのミドルフリーでは2位に13秒差をつけて優勝と、世界のトップ選手の仲間入りを果たしました。2度目の大舞台となる今回の北京パラリンピックでは、メダルを期待されている川除選手。夢は、憧れの大先輩であり、今回で7大会連続パラリンピック出場のレジェンド・新田佳浩選手と一緒にメダルを獲得することです。

   

来週のスポーツ伝説は……

3/7(月) 陸 上 福士加代子選手
3/8(火) 陸 上 福島千里選手  
3/9(水) 陸 上 木村文子選手
3/10(木) 大相撲 御嶽海久司関
3/11(金) 大相撲 琴ノ若傑太関

お楽しみに!!
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