2017年3月

  • 2017年03月27日

    果たして受け止めきれるのか...?

     先週のこのブログで、アメリカ・ティラーソン国務長官のアジア歴訪が意味するものについて考えました。その後、ある防衛関係者と話す機会がありました。直前までアメリカのシンクタンクに出向し帰国したばかりというこの人物は、日本とアメリカの報道の違いについて驚いたそうです。曰く、アメリカで国際ニュースというと、かつては一に中東、二に欧州、三四がなくて五にアジアという感じだったのが、ここ最近はトップか2番手でアジア、それも北朝鮮についてが報じられていた。それが、帰国してみると国内ニュース、特に森友学園問題と築地市場の豊洲移転問題に終始している。北朝鮮情勢は日本の方が身近なはずなのに驚いたとのことでした。

     さて、距離的にも近いだけに、朝鮮半島有事となれば様々な対応が必要で、だからこそ今議論すべきことも多岐に渡ります。先週は在留邦人の脱出について書きましたが、朝鮮半島から脱出してくるのは邦人だけに限りません。当然、南北朝鮮からの難民についても考えなくてはなりません。あまり報道されていませんが、これについては直近の国会でも議論されていて、今月9日の参議院・内閣委員会で和田政宗議員が質問しています。

    <和田議員:こうした事態(筆者注:朝鮮半島有事で難民が海を渡ってくるような事態)が起きた場合、どのような対応計画になっているでしょうか?
    警察庁松本警備局長:ご指摘のような事態が発生いたしまして、我が国に大量の避難民が流入した場合でございますが、基本的には関係機関が役割を分担いたしまして、まずは漂着した人たちの身柄の保護、そして、その人たちへ水や食糧の支給、さらに、上陸の手続き、そして収容施設を設置し、またそれを運営すると、そういった手順により対応を進めることになると想定しております。警察といたしましても、このような対応の各段階に置きまして、たとえばですが、避難民の滞在する施設の警備、また、避難民が起こす不測の事態への対応、避難民の人たちの輸送の支援などに当たることになると考えております。>

     この答弁で分かる通り、避難民対応に関してはすべきことは政府内で明確になっているようです。問題は、数。この内閣委員会の答弁では、"大量の"という表現でしたが、これがいったいどれだけの数になるのか?もちろん、有事の規模によっても変わってくるものですから一概に言えるものではありません。ですが、かつて何度か「10万人~15万人の難民が流入すると日本政府が分析している」と報じられています。

    『韓半島有事なら「北難民15万人が日本流入」...韓国在住米日民間人撤収計画も』(中央日報 2007年1月6日)https://goo.gl/AaDXNE

    『新戦略を求めて 21世紀の安全保障Ⅱ 周辺事態対応に不審と期待』(朝日新聞 2007年4月17日)https://goo.gl/By5xI8
    <日本政府は03年ごろ、「10万~15万人が日本上陸」と試算したことがある。>

     この数字はどうやら北朝鮮からの難民の数を試算したもののようですが、これに対する備えが出来ているのか?1994年の北朝鮮核開発疑惑の時には詳細な検討がなされたことがその後の報道に出てきています。

    『北朝鮮難民対策 「日本は大混乱になる」 官僚、強い危機感/政府マル秘文書(読売新聞朝刊 2003年1月4日)』(日本財団図書館HP)https://goo.gl/pmbxgV
    <〈帰還事業により、北朝鮮には約九万三千人の在日朝鮮人と家族がいた。死亡者を差し引いても、二世、三世を加えると、日本人を含む北朝鮮帰還関連者は少なく見積もっても十万人と推定され、これに近い数が避難民として到来する可能性が高い〉
     そしてこう結論付けた。
     〈法治国家の建前からすれば現行法の枠内で対応すべきではあるが、大量の避難民を不法入国者として身柄を拘束し、一時庇護(ひご)上陸の許可を与えることは、当局の陣容、施設をもってしては到底不可能である。当初は超法規的に事実上、上陸させる〉>

     現下の想定される朝鮮半島有事の際には、ここにさらに韓国在留の外国人(日本人を含む)や韓国からの難民も押し寄せて来るでしょう。アメリカとその友好国国籍の避難人数の試算については記事がありました。

    『避難対象の民間人は22万人、在韓米軍の韓半島有事の疎開計画が明かに』(東亜日報 2012年5月21日)https://goo.gl/SNvG3P
    <北朝鮮が全面的な南侵攻撃に出るなどの有事の際、在韓米軍は韓国に滞在している米国と友好国の市民22万人を即時避難させる計画を持っていることが明かになった。>

     これだけで押し寄せる避難民数は30万人~40万人に膨れ上がります。ここに韓国からの難民が押し寄せれば、50万を超える規模を一時的にせよ日本は受け入れる必要が出てくるわけです。50万人というと、栃木県宇都宮市や愛媛県松山市といった県庁所在地クラスの規模。政府内ではある程度対応プランはあるんでしょうが、これだけの人数が入ってくれば生活環境が一変することがあるかもしれません。それに対して国民レベルで受け止めるだけの意識醸成が出来ているとは到底思えません。上記内閣委員会での答弁でも、時間の関係もありさらなる突っ込んだ議論にはならないまま終わってしまいました。

    最後に、かつて朝鮮戦争の時に韓国からの難民にどう対応したのかを紹介します。

    『NIDSコメンタリー第32号』(防衛研究所HP)https://goo.gl/2ebg9X
    <さらに、朝鮮戦争では、米国人や日本人の避難の問題とは別に、韓国人の避難も課題になった。第一に、戦乱を逃れた密航者が増加、距離的に近い壱岐、対馬、北九州、関門、日本海側の各地域が上陸地となった。検挙者数は、2772 人(1950 年)、4425 人(1951 年)であったが、逃亡などを含めると実際の数はさらに多かったと思われる。その要因は、戦乱回避、徴兵拒否、生活苦などのほか、特殊な任務を帯びて密入国するケースも見られたと言う。検挙された密航者の多くは、長崎県の外務省大村入国者収容所に収容され、のちに強制送還されたのである。>

     今も入国者収容所はありますが、全国に2か所(大村と牛久)。50万という膨大な難民を受け入れるには規模が小さすぎます。東日本大震災時も仮設住宅を発災2か月で3万戸整備することが目標に掲げられましたが、実際には2万7千戸あまりでした。あの4畳半2部屋の仮設に5人ずつ詰め込んでも、ざっくり試算して2か月で15万人...。仮に日本列島が無傷であったとしても、この難民対応にリソースを取られてしまうと経済的なダメージを受けるでしょう。何しろ、対応を迫られる規模が東日本大震災時以上になる可能性があるのです。今の日本経済の余裕のなさで受け止めきれるのか?難しいとすれば、第三国に出国させるのか?しかし、それでは国際的な非難を浴びるかもしれません。ならば、今から少しずつでも準備をしておくのか?それを決められるのは、主権者国民。および、その主権の束を背負った国会議員だと思うのですが...。
  • 2017年03月22日

    安全への退避

     あまり話題になりませんでしたが、アメリカのティラーソン国務長官が来日しました。今回の来日は、日・韓・中の順の東アジア歴訪の最初の訪問地としての来日でしたが、就任したばかりということで"顔見世"的な訪問ではないかとも言われていました。ところが、

    『北朝鮮政策見直しへ連携=米国務長官「20年間失敗」-安倍首相らと会談』(3月16日 時事通信)https://goo.gl/eD1ku3
    <安倍晋三首相は16日、ティラーソン米国務長官と首相官邸で約1時間会談し、日米同盟を不断に強化していく方針を確認した。トランプ米政権が進める対北朝鮮政策の見直しについては、日米間で綿密に擦り合わせ、戦略目標を共有することで合意。これに関し、同長官は岸田文雄外相との共同記者会見で「(米国の政策は)過去20年間、失敗したアプローチを取ってきた」と指摘した。>

     見出しにもありますが、北朝鮮政策について、<トランプ政権が軍事力行使を含む「全ての選択肢がテーブル上にある」との姿勢で政策を見直していることを説明>しています。その上で、今までの20年間の対北朝鮮政策を全否定しているわけなのです。新政権の発足直後だから前政権の政策を否定するのならわかりますが、過去20年の中には現トランプ政権と同じ共和党政権(子ブッシュ政権)もあるわけです。
    それも含めて否定してかかり、かつ軍事力行使も否定しないということは、並々ならぬ決意を感じられるわけですね。

     さらに、今回の国務長官来日の直前、東アジア・太平洋担当の国務次官補を長く務めていたダニエル・ラッセル氏が辞任しました。

    『ラッセル米国務次官補が辞任 シンクタンクへ転出』(3月3日 日本経済新聞)https://goo.gl/9lrKaW
    <米国務省は2日、日本を含め東アジア・太平洋担当の国務次官補を3年半にわたって務めたダニエル・ラッセル氏が8日付で辞任し、ニューヨーク拠点の米シンクタンクに転出すると発表した。>
    <ラッセル氏は国務省日本部長や国家安全保障会議(NSC)アジア上級部長を歴任。次官補在任中にはオバマ前大統領の広島訪問に尽力し、今年2月にドイツで開かれた日米韓外相会談にも出席した。>

     トランプ政権ではほとんどの幹部官僚は辞任している中、このラッセル氏は例外的にオバマ政権からトランプ政権発足後も次官補にとどまっていました。それだけでなく、大統領選の最中の去年10月12日には「核兵器攻撃能力を持った瞬間に金正恩氏は死ぬ」と発言。

    『米次官補「核兵器攻撃能力を持った瞬間に金正恩氏は死ぬ」』(10月14日 朝鮮日報)https://goo.gl/0spvNI
    <米国務省のラッセル次官補(東アジア・太平洋担当)は12日(現地時間)「(朝鮮労働党の)金正恩(キム・ジョンウン)委員長は今後核攻撃を敢行できるほどの力を持つようになるかもしれないが、そうなれば彼はすぐ死ぬだろう」と述べた。>

    その上、トランプ氏の大統領選当選後、12月に訪日した際には、「トランプ政権になったら金正恩政権の転覆もオプションの一つになる」と日本政府側に通告しています。そのラッセル氏がティラーソン氏の東アジア歴訪の直前に辞任。引き継ぎに時間がかかったともいわれますが、だとすれば何を引き継ぐのに時間がかかっていたのか?外交筋は、一部報道にあるような斬首作戦(金正恩暗殺作戦)の具体的なプランを作成し、その一定のメドが立ったので辞任したのではないかと言います。

     このように、アメリカの北朝鮮政策における軍事オプションの可能性が増してきているというサインが様々な形で明らかになっているわけですね。要人の発言のみならず、具体的な訓練の形でも明らかになっていて、その一つが在韓米軍の家族の退避訓練です。

    『在韓米軍、沖縄へ家族脱出の避難訓練 北朝鮮の侵攻に備え』(1月4日 CNN)https://goo.gl/2NuxZI
    <韓国・ソウルにある龍山米軍基地。冷たい冬空の下、家族連れが集まって雑談したりコーヒーで体を温めたりしている。北朝鮮が韓国に侵攻した事態を想定しての避難訓練とは思えない光景だ。>

     この避難訓練自体は年に2回行われている恒例のものですが、沖縄まで到達するものは2010年以来。この2010年は延坪島砲撃事件が起こった年。それ以来の避難訓練ということで、その緊迫度が伝わってきます。アメリカは朝鮮半島有事が起こった場合の避難対象民間人の数を22万人と想定し、非戦闘員疎開作戦(NEO)という具体的なオペレーションに落とし込んでいます。この避難訓練も、NEOの訓練の一部なのです。在韓米軍は、在留アメリカ人向けに資料もホームページ上で公開しています。

    『NONCOMBATANT EVACUATION OPERATIONS』(米陸軍第2歩兵師団HP)https://goo.gl/gT8lNs

     アメリカの場合は韓国各地にも米軍基地がありますから、それを活用しながら安全な南部に逃がし、その後日本などのより安全な退避地に送り込みます。防衛関係者に取材をすると、非公開ですが、具体的な航空機の数や使用する施設なども細かく決められているようです。ベトナム戦争時のヤンゴン(当時)からの退避などを見ていると、多少の混乱はあれど細かな手順を事前に決め、それを非戦闘員も含めて周知していたことが分かります。

     一方、我が国はどうなのか?在韓国日本大使館とソウル・ジャパン・クラブが「安全マニュアル」を出しています。

    『安全マニュアル』(在大韓民国日本国大使館HP)https://goo.gl/B7FNfa

     この29ページによれば、外務省から渡航中止勧告が出た時点でそれぞれ独自の判断で退避が始まります。この時点では、基本的に定期便の席を各自で確保する形の退避となるようです。
     その後、退避勧告が出ると定期便以外のチャーター便などの確保の努力を大使館がするとあります。さらに、空港閉鎖の場合には、自宅・待避所で待機、そして後方の安全地域への避難となりますが、<他に手段がなくなった場合、集団を形成して自力避難(車両等による集団車列又は徒歩)をせざるを得ない場合もあります。>との記述があります。
     要するに、空港が閉鎖される前に何とか脱出しない限り、生命の危険を冒して自力避難せざるを得なくなる可能性があるわけです。

     かつて、イラン・イラク戦争当時のイランの首都テヘランで、邦人が民間航空機の席が取れずに取り残されるということが起こりました。当時テヘランには日本の航空会社の定期便が就航しておらず、他国の航空便は当然その国の国民を優先しますから、日本人は後回しになってしまっていたんですね。それを救ったのは、トルコ航空のチャーター便でした。およそ100年前のエルトゥールル号沈没事故でトルコ人の犠牲者が手厚く葬られ、生存者には手厚い保護を受けた恩を返してくれたんですね。

    『なぜ、日本は救援機を出さなかったか?その真実を知る』(特定NPO法人「エルトゥールルが世界を救う」HP)https://goo.gl/zJERWr

     隣国であり、かつ定期便も数多く就航している韓国では、危機においてもギリギリまで日本の航空会社が退避便を飛ばすでしょう。また、当時と違い今は政府専用機がありますから、これも使うことが可能でしょう。
     しかし、上記記事を読むと、これが30年経った今でも再び起こることはないと断言できるでしょうか?果たして日本にNEOがあるのか?あったとして、それが有事の際にきちんと機能してくれるのか?そのための訓練をしているのか?韓国にいる在留邦人は3万8千人余り。有事の際にその生命を守る態勢にあるのか?そろそろ、国会でこうした議論をしなくてはならない局面に差し掛かっているように思うのですが...。
  • 2017年03月14日

    海と生きる

     5日間にわたる東北太平洋岸縦断取材の最終日3月10日、私は岩手県宮古市を取材しました。宮古市は岩手県の中部沿岸、西隣が盛岡市という立地です。東日本大震災の際は、最大震度5強、死者行方不明者合わせて568人が犠牲になり、4098棟が倒壊しました。

     宮古市にある宮古港はおよそ400年前に開かれた歴史ある港。外海から遮へいされた天然の良港として知られ、沖合に豊かな漁場を持つ漁業基地として古くから栄えてきました。江戸時代からアワビなどの海産物を干した三陸俵物と呼ばれる名産品を大阪や長崎へと送り出していました。それゆえ、古くから船乗りを養成する学校が複数あり、明治28年には県立宮古水産高校が開かれ、その後昭和15年には国立の海員養成所が開校。海員養成所は現在、国立宮古海上技術短期大学校(海技短大)となっています。

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    宮古市にある国立宮古海上技術短期大学校

     それだけ海と深い関わりのある町であっただけに、船乗りの間にも津波の時の対処法が綿々と受け継がれてきたようです。この宮古市の景勝地、浄土が浜周辺を巡るの観光船『みやこ浄土ヶ浜遊覧船』の船長、坂本繁行さんは、
    「この辺じゃ、津波が来たら船を沖に出せってのが昔からの言い伝えだった」
    と話します。実際、2011年3月11日の東日本大震災に際しては、即座に船を沖に出し、津波の到達時には沖合い6キロほどの地点にいたということです。
    「あの時は、団体さんを乗せてのクルーズがその日の最終で、お客さんを下ろして船内を片付け、ちょうど船を降りて歩いていたところで揺れに遭ったんだ。スタッフが事務所から飛び出してきて、船長!地震です!それも、大きい!と言ったんで、即座に船をだすぞと。7分後には船を港から出すことができた」
    と、坂本さん。陸上から見ていたスタッフによれば、直後から潮が引き始め、みるみる間に港の底が見えたといいます。
     津波も含め、波というものは水深が浅いところに来て初めて立ち上がってくるもので、水深が深いところでは船ごと持ち上げられ、また下がりを繰り返したそうで、ひっくり返りそうになりながら乗り越えていくという感じではなかったそうです。それよりも、難渋したのは港の様子がわからず、帰港できなかったこと。結局、丸2日近く海の上で過ごしたそう。坂本船長ら3人は、初めは船内にあったカップラーメンで、後に海猫の餌付け用にストックしてあった『うみねこパン』を食べながら陸上からの連絡を待ったそうです。
     今回の東北取材で陸前高田や大槌の語り部の方々が、過去の津波の教訓が上手く語り継がれずに来てしまったことを悔いていましたが、船乗りたちはこうして言い伝えを語り継ぎ、いざというときに対応していました。沖に出ると、何艘もの船に遭遇したそうです。

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    あの日、船長の機転で沖へ避難した第16陸中丸。

     しかし、これだけの被害を母港にもたらした海の脅威。震災の前と後で海に対する考え方が変わったのか、海が怖くなったのではないかと思い聞いたところ、
    「そんなことはない」
    と、きっぱりと否定されました。むしろ、海は魚や貝など恵みをたくさんくれる。その上、
    「震災後、遊覧船から見ていると、自然の観光名所はどこも変わっていない。壊れたのは、人間が作ったものだけなんだよね。」
    と語ってくれました。食べ物としても、観光資源としても、海は豊かな恵みをもたらしてくれる。海とは共存していくしかない。昔からそうだったし、今もそう。そしてこれからも。坂本船長のインタビューでそんなことを感じました。

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    乗組員が空腹を凌いだうみねこパン。海藻が練りこんであり、ほのかに塩味を感じる。

     さて、先ほども書いた通り、宮古には船乗りを養成する学校が複数あります。その中で、今回は海技短大の取材をすることができました。この学校は、2年で船員としての基礎を叩き込むのみならず、航海と機関双方の免許を取得することができるという学校。それゆえ、企業側からの引き合いも強いそうです。宮古海技短大の森真校長に聞くと、
    「就職率は毎年ほぼ100%。だいたい卒業生の2倍の募集が来ていて、このところは完全に売り手市場」
    と話します。
     以前、日本丸を取材したときにも書きましたが、今や内航船と言われる国内航路の船員はかなりの人手不足。かつてのように外航船から流れてくる人材や、海自を退職した人の受け皿という人材供給も途絶え、新卒を入れなくては船があっても動かせないということになりかねない危機感があるそうです。これだけ就職が良ければ、地元を中心に将来を堅実に考える高校生の選択肢として海技短大の存在感は大きくなります。
     森校長は、
    「たしかに東北6県だけで全体の半数以上を占めます。それに、意外かもしれませんが船乗りというのは実は住むところを問わないんです。だいたい3ヶ月航海をして、その後1ヶ月休みというローテーションなんで、休みの間はどこに住んでいても問題ない。したがって、例えば長崎・佐世保の船会社に就職しても、住居は東北のままという人もいます。出航の時に佐世保や他の港まで行って乗って、そこから3ヶ月は船の上。その後1ヶ月は東北の実家に戻って休むというスケジュールも可能だから、東北の子でも引っ越しなしで全国の会社を受けられるのです」
    と、話してくれました。地元の就職難を救うという意味でも、貴重な存在なわけですね。

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    宮古海技短大の森真校長と

     もちろん、就職の魅力で海技短大に入る人もいますが、それだけではありません。今回の取材では、東日本大震災で被災した学生に話を聞くことができました。彼らは、地震、そして人によっては津波を間近で経験しながらも、それでもなお船乗りを目指す道を選んだわけです。
     まずは、卒業式を間近に控えた2年生の髙木飛雄馬さん。福島県いわき市の出身で、中学2年生の時に東日本大震災が起こりました。そこで、生活が一変します。
    「震災と、その後の原発事故で、所属していた浪江の野球チームが解散に追い込まれてしまいました。お世話になっていたコーチは消防団の仕事で誘導中、津波に呑まれ、今も行方不明のままです。生活のほとんどを野球に捧げてきたので、それはショックでした」
    そして彼は、兄を頼って茨城県に避難。そのまま、茨城で野球に打ち込む道を選びます。しかし、転校先では同級生から容赦ない言葉が。
    「正直、ヒバク呼ばわりされたりもしました」
    それでも、中学の先生や周りの理解もあり、徐々に溶け込んでいった茨城での生活。無事、高校に進学し、甲子園を目指しましたが、夏の県予選ではベスト8で涙を呑みました。その後、進路を決めあぐねていた時にヒントをくれたのが、やはりお兄さん。歳が10離れた兄は、茨城県の海洋調査船の乗組員。その兄が、船乗りを目指さないかと背中を押したそうです。当然、津波の被害も目の当たりにしているわけで、最初は怖いなという思いもあったそうですが、
    「今は船を海に出すと気持ちがいい。怖いという気持ちはないです」
    と語ってくれました。

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    お話を伺った、髙木飛雄馬さん(右)、廣﨑恭一さん(中)。

     もう一人は、1年生の廣﨑恭一さん。こちらは、4年制の大学を卒業したあとこの海技短大に入学しました。岩手県の久慈市出身。東日本大震災の時は大学一年生で、春休みで帰省している最中被災しました。まずはそのときの様子から。
    「自分の家は堤防のすぐ脇にあって、地震が来てすぐに高台に避難しました。すると、津波が街にみるみる近づき、あっという間に堤防を越えて実家も飲み込まれました。家って、しっかりと固定してあるイメージだったんですが、意外と浮くんですね。自分の家が浮かび上がって、水の上をプカプカ浮いている様が頭に残っています」
    幸い、ご家族も避難され無事だったそうですが、目の前で津波の脅威をまざまざと見せつけられたわけです。それで船乗りを目指そうと言うのは周りが止めそうなものですが、
    「いや、反対はありませんでした。祖父が漁師をしていて、父も船乗り。むしろ、父は少し嬉しそうな表情をしていました。」
    「海って津波とか奪うだけじゃないんですよ。むしろ、貰っているものの方が多かったので、差し引きしたら全然プラスで有難いなって思って。」
    と、話してくれました。

     奇しくも、先ほどの遊覧船の坂本船長と、この船員を目指す若者は同じことを言っていたんですね。東北太平洋沿岸は、遥か昔から海と共存し、その恩恵に浴してきました。今も、被災地の経済復興の柱を挙げればやはり海産物、そして観光。ともに、目の前に広がる豊かな海があってこそというわけです。海と共存共栄してきたこの地域、その最前線にいる船乗りたちは、ベテランも若手も等しくその恩恵を実感していました。そして、その海が牙を剥いた時の対処法もまた、ベテランから若手へと伝えられていくのでしょう。

     海の上では津波が来たらどうすればいいのかがきちんと語り継がれてきました。今度は陸上でも、津波が来たらどうすればいいのか、語り継いでいかなくてはいけません。
  • 2017年03月11日

    東日本大震災6年東北取材報告

     今週一週間、『ザ・ボイス そこまで言うか』は、私飯田が東北各地から番組に参加して、復興の現状と課題についてレポートしてきました。事前に決めていたテーマは「風化」。震災から丸6年が経とうとしている中、東京で報道を見聞きしていると段々と被災地についてのものが減っているように感じます。あの当時の「被災地を応援しよう!」というような熱が、防災を意識して生活しなくてはという危機感が、薄れているような感覚。こうした空気を被災地の方々はどう感じているのか?そう思って、これをメインのテーマに据えたのです。

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    こんな感じで放送していました。(宮城県女川町にて)

     しかし、現場で語り部の皆さんからお話を伺っていくと、どうやらそれが浅い考えだったということに気づかされました。「風化」なんて言うけれども、実際に経験された方々はそれを忘れられるはずがない。
     初日に福島県楢葉町でお話を伺った高原カネ子さんは、「風化、風化と言うけれども、だったら私たちはいつまで被災者でいればいいのか?」と真剣な表情で訴えられました。そして、「楢葉町でごくごく普通の生活をしている・戻った人たちで楽しく仲良く暮らしている現実を見てほしい」と話してくれました。実際に、語り部として話しているのも、震災の経験と合わせて今後の楢葉町がどう変わるのかにも重点を置いて話しているということです。高原さんにお話を伺っていて、「風化」という言葉を使うことそのものが、東京目線のイメージに過ぎなかったこと、私もそれに完全に囚われてしまったことを思い知らされました。

    『【ザ・ボイス東日本大震災語り部レポート福島県双葉郡楢葉町】3/6(月)放送分』(書き起こし)http://www.1242.com/lf/articles/39583/
    『2017/3/6(月)ザ・ボイス 長谷川幸洋 「飯田浩司 福島県楢葉町レポート」』(YouTube)https://www.youtube.com/watch?v=YjLhPDohq24

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    JR常磐線の南側の終点、竜田駅(福島県楢葉町)。朝方は乗降客も多い。

     宮城県女川町でお話を伺った遠藤達彦さんは、淡々と当時のことを語ってくれました。直前まで言葉を交わしていたお父様が津波に流されたこと、その後の生活、そして、お父様のご遺骨との再会...。それでも今は語り部として当時のことを語りつつ、6年が経って復興の現状、街がこんなにかわったんだ、これから先こうなるんだという前向きな話も盛り込むようになってきたと話します。案ずるのは、女川の経済について。遠藤さんの名刺には、観光協会の物販担当という肩書きが書いてありました。水産加工品と観光をPRして、交流人口を増やさなくては。経済を建て直さない限り、減り行く人口を食い止めることはできない。その横顔には、危機感が漂っていました。

    『【ザ・ボイス東日本大震災語り部レポート宮城県女川町】3/7(火)放送分』(書き起こし)http://www.1242.com/lf/articles/39729/
    『2017/3/7(火)ザ・ボイス 高橋洋一 「飯田浩司 宮城県女川町レポート」』(YouTube)https://www.youtube.com/watch?v=ILgjS56y_hE

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    女川町の中学生たちが『1000年先まで記録を残す』ため、内にあるすべての浜の津波到達点よりも高いところに石碑を作ろうという『いのちの石碑プロジェクト』で立てられた石碑の一つ。町内全21の浜のうち、現在12の浜にこの石碑が立っている。写真は女川中学校にあるもの。

     岩手県陸前高田市でお話を伺った實吉(みよし)義正さん、大槌町でお話を伺った赤崎幾哉さんはともに、70代。被災地の報道が少なくなってきたという"風化"より、津波避難のノウハウが伝えてこられなかった"風化"が、再び起こるのではないかと懸念されていました。三陸沿岸は、明治29年の明治三陸地震津波、昭和8年の昭和三陸地震津波、さらに昭和35年のチリ地震津波を経験しています。陸前高田も大槌も津波の経験は初めてではなく、むしろ他の地域に比べれば知識の蓄積があるはず。それなのになぜ、陸前高田は1700人余り、大槌も1200人余りの犠牲者を出してしまったのか?

     奇しくも二人とも、防潮堤をその原因に挙げました。「防潮堤神話があった」(實吉さん)、「防潮堤があるから大丈夫って思ってた」(赤崎さん)。昭和三陸でもこんなもんだった、チリ地震でもあんなもんだった。「その侮りが、あれだけの被害を生んだ」ともにチリ地震津波を経験し、昭和三陸、明治三陸の経験者も当時は周りにいたはずなのに、我々の世代が記憶を受け継ぐことができなかった・・・。今度こそ、津波の経験を後世にきちんと引き継がなくてはならない。それが生かされたものの使命だ。そう決意を語っていました。

    『【ザ・ボイス東日本大震災語り部レポート岩手県陸前高田市】3/8(水)放送分』(書き起こし)http://www.1242.com/lf/articles/40002/
    『2017/3/8(水)ザ・ボイス 桜林美佐 「飯田浩司 岩手県陸前高田市レポート」』(YouTube)https://www.youtube.com/watch?v=7Bo4nVfUH0g

    『【ザ・ボイス東日本大震災語り部レポート岩手県大槌町】3/9(木)放送分』(書き起こし)
    『2017/3/9(木)ザ・ボイス 飯田泰之 「飯田浩司 岩手県大槌町レポート」』(YouTube)

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    陸前高田市米崎町の再生の里ヤルキタウンの放送現場から。奥に見えている広田湾も、防潮堤が完成すると全く見えなくなる。

     被災地域が南北500キロにも及んだ東日本大震災。人々の気質も、復興の進み方も地域地域で様々。風化という言葉に関しても、感じ方は様々でした。あの悲劇からどう立ち直り、また活かす知恵は活かすというような気持ちの整理の仕方は各地で違うにもかかわらず、"風化"という平均的な言葉で括るのは余りに一面的で、それを報じるマスコミの怠慢ではなかったかと自戒を込めて思います。

     また今後の課題として、皆さんが共通して案じていたのは地元の経済のこと。語り部をするほどですから、地元に対する思いは人一倍強い人々です。
    その彼らが目の当たりにしているのは、故郷に帰るのを諦めてしまう周りの人々。帰っても職がない、お店を再開しようにも住む人がいなきゃお客さんがいない・・・。もちろん、ここには過疎化、高齢化といった、震災前からの課題が震災を経て顕在化、加速した面が大きくあります。それゆえ、一筋縄ではいかない問題ですが、震災から6年、もはや「復旧」ではなく「復興」。それも経済復興へとフェーズが移ってきていると感じました。従来は、かさ上げ工事や防潮堤整備といったインフラが完全に復興してから経済再生という流れを想定していましたが、こうもインフラ整備の方に時間がかかっていると、インフラを整備しながら、仮設も含め手元に有るもので経済振興を考えなくてはならないのです。

     3月10日の金曜日に岩手県の宮古市を取材しました。その様子は来週、このブログで紹介しますが、取材の最後に宮古市役所産業振興部観光港湾課の竹原和彦さんが言っていた言葉が耳に残っています。
    「宮古はもう被災地じゃなくて観光地ですから!またぜひ来てくださいね!」
     被災地ではなく観光地。そう、いつまでも被災地だと思って遠慮せず、どんどん東北を訪問してください。それが最大の支援にもなりますし、それが経済復興への第一歩となります。
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飯田浩司

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ザ・ボイス そこまで言うか
月~木 16:00~
辛坊治郎ズーム そこまで言うか
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