2017年03月11日

東日本大震災6年東北取材報告

 今週一週間、『ザ・ボイス そこまで言うか』は、私飯田が東北各地から番組に参加して、復興の現状と課題についてレポートしてきました。事前に決めていたテーマは「風化」。震災から丸6年が経とうとしている中、東京で報道を見聞きしていると段々と被災地についてのものが減っているように感じます。あの当時の「被災地を応援しよう!」というような熱が、防災を意識して生活しなくてはという危機感が、薄れているような感覚。こうした空気を被災地の方々はどう感じているのか?そう思って、これをメインのテーマに据えたのです。

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こんな感じで放送していました。(宮城県女川町にて)

 しかし、現場で語り部の皆さんからお話を伺っていくと、どうやらそれが浅い考えだったということに気づかされました。「風化」なんて言うけれども、実際に経験された方々はそれを忘れられるはずがない。
 初日に福島県楢葉町でお話を伺った高原カネ子さんは、「風化、風化と言うけれども、だったら私たちはいつまで被災者でいればいいのか?」と真剣な表情で訴えられました。そして、「楢葉町でごくごく普通の生活をしている・戻った人たちで楽しく仲良く暮らしている現実を見てほしい」と話してくれました。実際に、語り部として話しているのも、震災の経験と合わせて今後の楢葉町がどう変わるのかにも重点を置いて話しているということです。高原さんにお話を伺っていて、「風化」という言葉を使うことそのものが、東京目線のイメージに過ぎなかったこと、私もそれに完全に囚われてしまったことを思い知らされました。

『【ザ・ボイス東日本大震災語り部レポート福島県双葉郡楢葉町】3/6(月)放送分』(書き起こし)http://www.1242.com/lf/articles/39583/
『2017/3/6(月)ザ・ボイス 長谷川幸洋 「飯田浩司 福島県楢葉町レポート」』(YouTube)https://www.youtube.com/watch?v=YjLhPDohq24

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JR常磐線の南側の終点、竜田駅(福島県楢葉町)。朝方は乗降客も多い。

 宮城県女川町でお話を伺った遠藤達彦さんは、淡々と当時のことを語ってくれました。直前まで言葉を交わしていたお父様が津波に流されたこと、その後の生活、そして、お父様のご遺骨との再会...。それでも今は語り部として当時のことを語りつつ、6年が経って復興の現状、街がこんなにかわったんだ、これから先こうなるんだという前向きな話も盛り込むようになってきたと話します。案ずるのは、女川の経済について。遠藤さんの名刺には、観光協会の物販担当という肩書きが書いてありました。水産加工品と観光をPRして、交流人口を増やさなくては。経済を建て直さない限り、減り行く人口を食い止めることはできない。その横顔には、危機感が漂っていました。

『【ザ・ボイス東日本大震災語り部レポート宮城県女川町】3/7(火)放送分』(書き起こし)http://www.1242.com/lf/articles/39729/
『2017/3/7(火)ザ・ボイス 高橋洋一 「飯田浩司 宮城県女川町レポート」』(YouTube)https://www.youtube.com/watch?v=ILgjS56y_hE

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女川町の中学生たちが『1000年先まで記録を残す』ため、内にあるすべての浜の津波到達点よりも高いところに石碑を作ろうという『いのちの石碑プロジェクト』で立てられた石碑の一つ。町内全21の浜のうち、現在12の浜にこの石碑が立っている。写真は女川中学校にあるもの。

 岩手県陸前高田市でお話を伺った實吉(みよし)義正さん、大槌町でお話を伺った赤崎幾哉さんはともに、70代。被災地の報道が少なくなってきたという"風化"より、津波避難のノウハウが伝えてこられなかった"風化"が、再び起こるのではないかと懸念されていました。三陸沿岸は、明治29年の明治三陸地震津波、昭和8年の昭和三陸地震津波、さらに昭和35年のチリ地震津波を経験しています。陸前高田も大槌も津波の経験は初めてではなく、むしろ他の地域に比べれば知識の蓄積があるはず。それなのになぜ、陸前高田は1700人余り、大槌も1200人余りの犠牲者を出してしまったのか?

 奇しくも二人とも、防潮堤をその原因に挙げました。「防潮堤神話があった」(實吉さん)、「防潮堤があるから大丈夫って思ってた」(赤崎さん)。昭和三陸でもこんなもんだった、チリ地震でもあんなもんだった。「その侮りが、あれだけの被害を生んだ」ともにチリ地震津波を経験し、昭和三陸、明治三陸の経験者も当時は周りにいたはずなのに、我々の世代が記憶を受け継ぐことができなかった・・・。今度こそ、津波の経験を後世にきちんと引き継がなくてはならない。それが生かされたものの使命だ。そう決意を語っていました。

『【ザ・ボイス東日本大震災語り部レポート岩手県陸前高田市】3/8(水)放送分』(書き起こし)http://www.1242.com/lf/articles/40002/
『2017/3/8(水)ザ・ボイス 桜林美佐 「飯田浩司 岩手県陸前高田市レポート」』(YouTube)https://www.youtube.com/watch?v=7Bo4nVfUH0g

『【ザ・ボイス東日本大震災語り部レポート岩手県大槌町】3/9(木)放送分』(書き起こし)
『2017/3/9(木)ザ・ボイス 飯田泰之 「飯田浩司 岩手県大槌町レポート」』(YouTube)

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陸前高田市米崎町の再生の里ヤルキタウンの放送現場から。奥に見えている広田湾も、防潮堤が完成すると全く見えなくなる。

 被災地域が南北500キロにも及んだ東日本大震災。人々の気質も、復興の進み方も地域地域で様々。風化という言葉に関しても、感じ方は様々でした。あの悲劇からどう立ち直り、また活かす知恵は活かすというような気持ちの整理の仕方は各地で違うにもかかわらず、"風化"という平均的な言葉で括るのは余りに一面的で、それを報じるマスコミの怠慢ではなかったかと自戒を込めて思います。

 また今後の課題として、皆さんが共通して案じていたのは地元の経済のこと。語り部をするほどですから、地元に対する思いは人一倍強い人々です。
その彼らが目の当たりにしているのは、故郷に帰るのを諦めてしまう周りの人々。帰っても職がない、お店を再開しようにも住む人がいなきゃお客さんがいない・・・。もちろん、ここには過疎化、高齢化といった、震災前からの課題が震災を経て顕在化、加速した面が大きくあります。それゆえ、一筋縄ではいかない問題ですが、震災から6年、もはや「復旧」ではなく「復興」。それも経済復興へとフェーズが移ってきていると感じました。従来は、かさ上げ工事や防潮堤整備といったインフラが完全に復興してから経済再生という流れを想定していましたが、こうもインフラ整備の方に時間がかかっていると、インフラを整備しながら、仮設も含め手元に有るもので経済振興を考えなくてはならないのです。

 3月10日の金曜日に岩手県の宮古市を取材しました。その様子は来週、このブログで紹介しますが、取材の最後に宮古市役所産業振興部観光港湾課の竹原和彦さんが言っていた言葉が耳に残っています。
「宮古はもう被災地じゃなくて観光地ですから!またぜひ来てくださいね!」
 被災地ではなく観光地。そう、いつまでも被災地だと思って遠慮せず、どんどん東北を訪問してください。それが最大の支援にもなりますし、それが経済復興への第一歩となります。
書籍
プロフィール

飯田浩司(いいだ・こうじ)

1981年12月5日生まれ。
神奈川県横須賀市出身。O型。
2004年、横浜国立大学経営学部国際経営学科卒業。
現在、ニッポン放送アナウンサー。
ニュース番組のパーソナリティとして政治経済から国際問題まで取材活動を行い、ラジオでは「議論は戦わせるものではなく、深めるもの」をモットーに情報発信をしている。
趣味は野球観戦(阪神タイガースファン)、鉄道・飛行機鑑賞、競馬、読書。

■出演番組
≪現在≫
「飯田浩司のOK!COZY UP!」

≪過去≫
「ザ・ボイス そこまで言うか」
「辛坊治郎ズーム そこまで言うか」

■Twitter
「飯田浩司そこまで言うか!」

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