避難するのがあと1分2分早ければ逃げる事が出来たんじゃないか【ザ・ボイス東日本大震災語り部レポート宮城県女川町】3/7(火)放送分

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「ザ・ボイス そこまで言うか!」では、3/6(月)~9(木)の放送にて、東日本大震災の被災地にて、被災者の方のインタビューを放送しています。3/7(火)放送分を掲載します。なお、「災害として風化させてはいけないが非日常から日常に戻りたい【ザ・ボイス東日本大震災語り部レポート福島県双葉郡楢葉町】3/6(月)放送分」も合わせてご覧ください。

今週は4日間にわたって私、飯田が東北から番組に参加しまして、東日本大震災からの復興の現状と課題をお伝えしてまいります。2日目の今日は宮城県の女川町から参加しています。宮城県の太平洋沿岸に位置するこの女川町。日本三景の松島の東、牡鹿半島の付け根にあります。東日本大震災では最大震度6弱、津波の高さ14メートル超を記録し、死者行方不明者合わせて827人、人口のおよそ8%の尊い命が奪われました。

今日は女川町観光協会で語り部のお仕事をされています、遠藤達彦さんにお話を伺いました。46歳の男性です。ではまずは2011年3月11日当時の様子を聞きました。

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遠藤
今、女川町観光協会にいるんですけども、その当時の私の家では水産加工業をしておりまして、うちの父親と私と、小さいながらも会社やってました。当日地震が起きて、その直後すぐ家の方に戻ったんですけど、家にいた母親を先に避難させまして、家の方にもう一度戻って来て、その時父親と従業員の方に「逃げろ!」と声をかけたんですけども、まだなんか「大丈夫だろ」みたいな感じの雰囲気だったんですね。うちは車がもう一台あったんで、それをなんとか避難させて、山の上のほうの避難場所からまた降りていきました。そしたら自宅のすぐ近くの川の辺りで津波が来るのが見えましたので、そのまま坂を登って、私はギリギリ山の上に逃げることが出来て助かったんですけれど。うちの父親と従業員の方々はですね、津波に流されて亡くなってしまいまして。

飯田
お母様は避難誘導されて山の方に?

遠藤
ええ、逃げたんですね。結果その逃げた避難場所、集会場だったんですけれども、そこも津波が来るということで、すんでの所で、皆さんそこに50人ほど居たんですけれども、さらに山の奥の方ですね、林道の方に避難しまして、それで本当にギリギリ助かったような感じでした。

飯田
普段、例えば避難訓練とかで使っていたような所でも、想定を超えて津波の被害があったんですか?

遠藤
過去に女川町は大きな津波に何度も襲われていたもんですから、それを教訓に一応高台の方に避難場所であるとか、そういう施設が作られていたんですけども、その想定を超えるような高い津波が今回生じてしまいまして、多くの方が流されてしまったのかなと思います。

飯田
その後は避難所で暮らしていらっしゃった?

遠藤
そうですね。震災直後から9月ぐらいまで総合運動場体育館のですね、そちらの方で皆さんと暮らしていたような形ですね。

飯田
最初は物資が届かなかったり、大変だったんじゃないですか?

遠藤
そうですね震災から1日目2日目ぐらいまでは食べる物っていっても、缶詰の1かけら2かけらぐらいのやつを皆さんに配給される様な形でして。で、3日目ぐらいになってやっとおにぎりだったかサンドイッチだったかそういう物が配られたっていうのを覚えております。

飯田
立ち入った事を聞いて恐縮なんですが、お父様が流されてしまった後、その後再会は?

遠藤
結局うちの父親は震災の年の6月にですね、海の方で遺体が引き上げられまして、身分証明書を持ってなかったもんですから、そのままDNA鑑定の方に回されまして、震災の翌年の2月に警察から「型が一致しました」と連絡がありまして、父親の遺骨が戻って来たという様な形です。

飯田
その時のお気持ちというのは?

遠藤
津波が来る本当にもう5分10分前ぐらいまで一緒に居まして。で、そこからプツリともう本当になんていうんでしょうね?姿が消えてしまったという。普通身内の人たちが亡くなる時っていうのは病気だったり事故だったり、目の前に遺体がある形で遺体を弔うと言うか、そういう形があって「ああ、亡くなったんだな」っていう区切りがつくと思うんですけども、津波で亡くなった方々、すぐに遺体が見つかった方々は特にそういうあれは無いかもしれないですけど、うちの父親は行方不明の期間が長かったもんで、なおかつ、「はい」という形でポンと戻って来て。亡くなったっていう実感が、あまり湧かなかったっての正直な感じですかね。

こうした厳しい体験をした遠藤さんなんですけれども、遠藤さん曰く、ご遺体の中を逃げるようなトラウマになるような経験は私はしていないからガイドでこうして話すことも出来るんですと、中にはガイドを止めてしまった方もいらっしゃるということでありました。語り部としてどのようなことをお話しされているのか伺いました。

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遠藤
今の現状、震災当時の様子。あとそれから6年経ちますんで、町の復興の様子を中心にガイドをさせて頂いてるという様な形になります。

飯田
先ほど少しガイドして頂いたんですが、駅前もかさ上げをして、昔とは光景が変わってるということですね?

遠藤
そうですね。震災の時に女川町という名前を聞いた方々は、結構全国的に多いと思います。震災前にも女川は来たことあるって言う方々も勿論いらっしゃるんですけども、ほとんどの方が女川初めて来たと。震災後「町が出来たということで来ました」という方々が結構多いので、なかなか以前の街並みっていうの説明するのは難しいんですよね。ですんでパネルですとか、写真とかそういうのを見せながら、元々本来はこういう場所だったんですよと。ここがまあ、土地が10mかさ上げされたとか、町の風景はこういう風に変わりましたという事で、説明しています。

飯田
この駅前の商業施設も、10メートルくらいですか、かさ上げされたのは?

遠藤
駅の方で10m。海側の方に行くに従いまして、なだらかな傾斜になっていまして、大体まあ8m、7mっていう形で坂になっているんですね。坂になることによって海がすごく綺麗に、景観がよく見えるように。女川の場合は防潮堤を作らないという方針がありまして。全く作らないわけではないんですけども、防潮堤代わりにかさ上げはするんですけども、やはり海と共に生きてる町なもんですから、その海を見えなくしてしまうってのは町の復興では考えられなかった。海の風景、海の幸、その辺全て共有する形で町の復興が進められている状態です。

飯田
確かに今日朝9時頃、女川の駅から見ると目の前こう、商店街の先に海がキラキラと光っていて、ドーンと広く開けているんですね、これ東側に開けている?

遠藤
そうですね。元日の朝にちょうど日の出の時間、駅の真正面から初日の出が上がる様な、そういう設計をされて作られたそうです。

飯田
綺麗でしょうね。

遠藤
はい。特にあの駅の3階部分が実は展望台になっていまして、そこから見ると本当に綺麗な朝日、初日の出が見ることが出来ます。

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女川、あの列車で来ていただくと本当、駅を出ると「パン!」といきなり目の前が開けるという感じになってます。お話にもありましたが緩い坂になっていて、海まで綺麗に見える、商店街の先に見えるんですが、商店街を抜けた先の海側のところにはですね、横倒しになっている交番が今も当時の姿そのままであります。自分達の目線より下で、まるで穴の中にこう横倒しになっている様になってまして、これがかさ上げ前の、ある意味元の位置、少し地盤は沈下してますけども元の位置で。かさ上げって相当高いところまでやってるんだなっていうのも実感出来ます。これは震災遺構として残していこうという方針だそうです。で、周りを見渡すと今もかさ上げ工事の真っ只中で、まだ綺麗になったのは駅周辺のみという感じなんですが、町が変わっていくように人々の記憶というのもどんどん変わっていてしまいます、記憶が風化しないように遠藤さんご自身語り部として意識していることは何なのか、伺ってまいりました。

遠藤
ここ1~2年、地震とか津波に関わらず、雨が降ったり崖崩れというか、日本全国で大きな災害が起きていますんで、災害に対する備えって言うんですかね?天災で亡くなるのはしょうがない部分もありますけど、準備は出来るわけですよね。あらかじめ避難するだとか、そういうすぐ避難できるような対策を練っておくとか、そういう心構えを常に持っておいてもらった方がいいですよ、という形で、一応お話をしています。

飯田
それというのはやっぱりお父様の……?

遠藤
そうですね。うちの父親を最後に見たのが、橋の上で津波が来るのが見えたんですけども、その数秒前にうちの父親が乗っただろう車が出てきたんですね。出てきたんですけどまた建物の影にバックして戻って行っちゃったんです。あれっ?と思ったら津波が来たんですよ。だから避難するのがあと1分2分、本当に1分2分早ければ、逃げる事が出来たんじゃないかと思うんですよね。だから本人が逃げようとした時にはもう海岸線まで津波が襲って来ていたので、逃げることが出来なかったと。で、山の上の方に建物が何件か残ってまして、あちらの方に避難した方々が、うちの父親であろう人間が家の2階の屋根に掴まるような形で押し波によって、山の方に流されていく姿が一応目撃されてるんですよ。家の2階ですから、服装も帽子被ってて、作業着を着てた人だったと聞いてますんで、たぶんソレがうちの父親だろうなと思います。だからそういう形で身内を亡くされた方々、下手すると一家で車に乗ってて、そのまま流されて亡くなってしまったっていう方々もいらっしゃいますし。逃げれたはずなんですけど、行動が若干遅れてしまったがゆえに亡くなってしまったという方々が多くおられますんで、1人でも2人でも助かるように、出来れば、亡くなる方がゼロになればいいなと思ってお話しさせていただいてます。

飯田
今後さらにこう復興を進めて行く中で、この町としてどういう課題があるとお考えですか?

遠藤
どんどん女川町の人口というものが、減りつつありまして、かつて10,000人住んでた町で、津波によってまあ827人亡くなっていますけども、本来9,000人ほど、町の人口が居るはずなんですけど、現状で6,600人程になってしまいまして。2,000人以上、3,000人弱の方々が、女川から引っ越して、石巻ですとか、その周辺地域に新たに家を建てて暮らしています。町の復興は進んでるように見られがちなんですけど、住宅面での方というのが中々、女川町は遅れていまして。町の住居の復興を待っていられないという方々が、どんどん女川町を出て行ってしまわれた方々が結構多くおられて、今後また人口の方も、なかなか増える見込みないですから。いかに人口を減らさないですね、どんどんこの町にお客さん来てもらってですね。観光の町として今後PRするというか、観光の町としてしか、やっぱ生きていく道は多分ないのかなと思います。

飯田
まあ人口というよりは交流人口も含めてですね。

遠藤
そうですね、はい。

飯田
住宅の面なんですけれども、災害復興住宅が中々進まないっていうのは、何か原因があったんですか?

遠藤
町の方針としまして、住宅は全て高台の方に移転するという計画がありまして。女川町は、山林が80%を占めてる街なんです。で、山間の本当に狭いところ、海沿いの狭いところに今まで町が作られていたところもありますので、宅地の造成というのに手間がかかってまして、つい先日やっと災害公営住宅ですとか、自立再建の家を建てる敷地の完成が50%を超えたような状況でして、まだまだ多くの方々が仮設住宅で暮らしてるというのが実情です。

飯田
ご自身は?

遠藤
まだ私自身も仮設住宅の方に暮らしておりまして。一応今年中には災害公営住宅が完成する予定ですので、12月頃には多分引っ越し出来るのかなと聞いています。

飯田
これだけ仮設で長く暮らしてらっしゃると、仮設の中でコミュニティが出来てますよね?

遠藤
そうですね。うちも3年4年ぐらい、その仮設で暮らしていますんで、うちの母親も、お年寄りの方々が集会所でお茶飲み会とかやってるんですけども、それが結構昼の楽しみで。週に2回だったりとかね、参加していて。まあ気晴らしにもなっていると思います。どんどん仮設住宅から災害復興に移っていく、自立再建で家を建てる方々がどんどん抜けていきました。うちの仮設の地区でも半数が出て行かれたような形になっています。まだ残ってる方々でお茶飲み会だとかまだやってはいるんですけども、どんどん人数が減っていってしまうと。また新たに引っ越した人は引っ越した人で、新しい家の周りで新しいコミュニティを作らなくちゃいけないという、避難所暮らしの時にあったコミュニティがあって、こんど仮設住宅に移った時のコミュニティがあって、またさらに災害公営住宅・自立再建で新たに造成された家に入ると、また新しいコミュニティを作らなくちゃいけないということで、お年寄りの方々にとっては大変なのかなと思います。

飯田
元居たところのコミュニティで一緒に避難して、一緒に仮設に入って、一緒に公営住宅街に行って。そういう流れができれば良かったけど、そうならなかったですね。

遠藤
自治体によってそういう申請が認められるところもあったんですけども、女川の場合はそれがなくて。結局仮設住宅に入るにも、抽選で当たった、外れた、って方がありまして。仮設住宅の建設も女川は結構遅くて、震災の年の11月ぐらいまで避難所暮らしされてた方々もおられまして。そういう形で仮設住宅でも抽選だったし、災害公営も希望通りに入れた人もいれば、入れなかったしておりますし。もちろんね、そういう形で今後どんどん希望が一応実現される形で住居を移って行く方々も多いんですけども。お年寄りだったり、あと生活弱者と言われる方々にとっては、どこも選択していない。どこに住居を住みますか?どこの災害公営住宅希望しますか?っていう風なアンケートを町の方で取ったとしても、極端に言うと「分からない」と。ずっと今まで通りの仮設、今まであるコミュニティで暮らしたいって言う、そういう風に言ってる方もいらっしゃいます。そういう方々のフォローってのも、今後町の方ではしていくんでしょうけども、大変な事だと思います。

飯田
今、伝えたいことは?

遠藤
本当に今回の地震は東北・太平洋沿岸が大変な事になりましたけど、今後、南海トラフ、東海地震とか、その辺の大きい地震がね、関東だったり中部・四国・九州と大きな地震が来れば、そちらの方もやっぱし津波で大きな被害出ると思いますので。それに対する備えていうのは、皆さん出来ているかどうか。東京でね、大きい地震が起きたら大変なことになると思いますしね。それ対する備えというのを、皆さん日頃から考えていて欲しいなと思います。

どうやってその記憶を語り継いでいくのかという所。この女川というところは津波の経験がある意味では豊富な所でもあります。明治三陸地震、それから昭和三陸地震、昭和8年。さらにチリ地震津波というのも押し寄せたというところで、遠藤さん曰く、そういった津波の経験値が高いお年寄りほど、今回はここまでは来ないだろうと言ったところに居て、想定外に津波が高くなって、犠牲になったという方もいらっしゃったとおっしゃっていました。どうやって記憶を語り継ぐかっていうのは、ここ何年か言われ続けているところですけれども、一つ『いのちの石碑プロジェクト』というのをご紹介したいと思います。女川の中学生達が、1,000年後の命を守るために、1,000年先まで記録を残すために何をするかという中で、町内にある全ての浜に、津波の到達点より高いところに石碑を作ろうというプロジェクト。これすでに12の浜に石碑が建てられています。最終的には町内21箇所に石碑を建てる予定だということなんですね。で、私もその一つ女川中学校というところにあるものを見に行ったんですけれども、これにはかなり強い調子で「(石碑を)絶対に移動させるな」と、「ここが津波の到達点だ」と、「逃げない人がいても無理やりにでも連れ出してくれ」「家に戻ろうとしている人がいたら絶対に引き止めてくれ」という風に刻まれています。当時の女川中学校の中学生、この子達がハタチになるまでにすべての浜に建てようというプロジェクトが今進んでいる最中だというところだそうです。

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