大きな波が来た僅か40分で1,760名亡くなる。防波堤神話による心の風化問題【ザ・ボイス東日本大震災語り部レポート岩手県陸前高田市】3/8(水)放送分

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ザ・ボイス そこまで言うか!」では、3/6(月)~9(木)の放送にて、東日本大震災の被災地にて、被災者の方のインタビューを放送しています。3/8(水)放送分を掲載します。なお、合わせて以下の記事もご覧ください。

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避難するのがあと1分2分早ければ逃げる事が出来たんじゃないか【ザ・ボイス東日本大震災語り部レポート宮城県女川町】3/7(火)放送分

今週は4日間にわたって私、飯田が東北から番組に参加して、東日本大震災からの復興の現状と課題についてお伝えしています。3日目の今日は、岩手県の陸前高田についてのリポートです。岩手県陸前高田市は、岩手と宮城の県境、ですから、岩手県の最南部ということになります。南東部に位置しております。太平洋に面し、三陸海岸の一部をなしているというところ。白砂青松の高田松原というのが非常に有名なところでありました。
3月11日、東日本大震災では最大震度6弱を記録しました。この地震で、最大17.6メートルの津波を記録しております。津波による浸水の面積は、13平方キロメートルにも及びまして、これは、東京都豊島区とほぼ同じ面積ということであります。市街地のほぼ全域が飲み込まれたというところです。死者・行方不明者は合わせて、1700人以上。

今、海岸には、防潮堤がほぼ完成しております。1年前にも私、この陸前高田を訪れているのですが、そのときは、工事の真っ最中でした。そこから防潮堤がほぼ完成しておりまして、他の地域と比べると海側にありますんで、国道などから見るとかなり遠く感じるんですね。反対側をみると、かさ上げが引き続き、続いております。ダンプトラックがひっきりなしに走っており、かさ上げされた区画がですね、台形のような形で並んでいる形になっております。

その陸前高田市で語り部ガイドをなさっている方にお話を伺って、現状、そして課題などを伺って参りました。陸前高田市観光物産協会の副会長も務められている語り部ガイド・實吉義正(みよし・よしまさ)さん(73歳)。まずは、当時の状況について伺っております。

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實吉
車を運転している途中、道路の上で今度の地震に会いましてね。14時46分に。そのあと津波警報ってことになったんですが、津波の第一波が15時21分。ですから、人間の運命っていうのは、自分では歯車を回せないっていうのがあってね。帰りがあと30分ズレると、今日の私はいるのかな、みたいなところがあるわけでね。この地域は、昔から津波が何回も来ているところなんです。リアス海岸地帯だから。三陸沖にはプレートがズレ込むって場所があって、歴史的に津波を繰り返しているんですが、ただその教訓がね、活かされてないまま現在まで来てる。今回の津波は、これまでで史上最大だと。でも、津波を何回も経験している地域が何でこれだけ多くの人の命を失って、多くの財産を失わなきゃいけないのかなっていうのは、今考えてみると非常に悔しい。本当に残念だっていうのが今、正直なとこですね。

ただ、亡くなった人含めて、私は自分の妹も失ってますけど、僕にとって一番、大きな衝撃っていうのは、あの津波の時間って正味、大きな波が来た時間は、30分から40分ですよね。ほとんどの人がその大きな津波が来たときで亡くなっているんですよ。僅か30分、40分で1760名が亡くなって、僕は、そのあと犠牲者名簿が発表されたと きに、自分が知っている人がどれくらいいるか数えたら、300人超えたんですよね。人生の中でね、自分の知っている人が、僅か30分、40分で300人近く亡くなるっていうのは、普通、経験出来ないことなんですね。

この陸前高田も含めて、三陸海岸というのは、過去何度も津波に襲われています。明治以降でも、明治29年の『明治三陸地震津波』、そして、昭和8年の『昭和三陸地震津波』、さらに、昭和35年、『チリ地震津波』がありまして、そして、2011年3月11日の『東日本大震災』。以前の教訓が何故、活かされなかったのか、伺いました。

實吉
まず、一つはですね。"防潮堤神話"じゃないかなと思うんですね。その1960年の昭和35年の津波のときまでは、私たちの海岸にはね、一切、防潮堤はなかったですね。その1960年の津波を経験して、初めて海岸部に全部、防潮堤が作られた。そのとき、陸前高田に入って来た、波の高さは1m50cmだったんですね。それで亡くなった人もいない……、多分、いなかったはずです。ただ、田んぼなんか浸水したんですけどね。「おらが町は大丈夫だ」という意識がですね、それまで田んぼだったところを埋めて、どんどんどんどん、町が逆に海に向かって作られたってことですね。この海のすぐそばのバイパスが昭和60年に通ってますからね。バイパスが通ると、大型商店とか、多くのお店とかパチンコ屋さんが出来て、あの津波の時間帯にこの海のすぐ前のバイパスには、多くの人がいたってことですよね。

だから、これ一番基本なのは、"防潮堤神話"って言葉とね、それに伴って生じる、いわゆる人々の心の風化だと思うんですね。だんだん現実味がなくなっていく。「(津波なんて)来るわけはないよ」そういったことが避難場所なんか決められても、「こんな海の近くの避難場所で大丈夫なのか?」ってことを考える人は誰もいなくなるんですね。防災訓練はセレモニーみたいになって、現実的に津波が来たらどうするってことがなかなか考えられなくなる。それが今回、多くの人命を失った最大の原因だと思いますけどね。

昭和35年の記録は結構、残ってますよ。残せるメソッドはたくさんあったんですよね。ただ、それはやっぱりね、本棚の中とか、書庫の中に眠ってしまって終わりだったですよね。自然現象は絶対これで終わりだとかね、これが最後ってことは、私はないと思います。いつかはね、これを超えるものも予想されるわけでね。"防災"って言葉があってね、当然、それは大事な言葉なんですが、どうしても"防ぐ"っていう言葉ですよね。"防"は。だから、例えば、極端なことを言えば、防潮堤を高くすりゃ大丈夫だとか、住んでいるところを高くすりゃいいっていう、そういう考え方にどうしてもなるんですね。それはそれでいいんですよ。ただ問題は、結果として今回も50年経ったら海に向かって町が出来てしまったじゃないですか。結果として一番大事な津波に対する意識が風化していったのかなぁと。だから"防災"っていうよりは、"減災"って言葉を大事にしたら良いんじゃないのかな。海の防潮堤を高くするのも大事ですけどね、私は人々の心の防潮堤をいかに高くするかってことを繋いでいかないと、また同じことを繰り返すのかなって、そういったことを考えて、僕らが終わった後、誰かが引き継いでいく。

ただ、アーカイブスとして残してしまっては意味がない訳で、それを活かしながら、機会があるごとに伝えていかないと。津波っていうことだけじゃなくて自然災害に対して、私たちはどう対処すべきかってことを、住んでいる地域の自然条件に応じて、皆さんで考えて頂きたい。犠牲となる尊い人命をどれだけ少なく出来るかってことが究極の課題だと思いますんで、そのためには常に心の防潮堤、心の危機意識を持って頂きたいというのが、我々がこういうことをやっている、一つの大きな要因です。

飯田
やっぱり肉声で伝えるっていうことが大事でしょうか。

實吉
私は大事だと思いますね。しかも、それを経験した人。やっぱり、その人によって語られる、繋いでいく。そういうのが大事だと思いますね。

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實吉さんは、73歳ということで、チリ地震津波のときは、高校3年生だったということであります。ですから、その前の街並み、そして、防潮堤が出来てから、町がどんどん海の方へ広がっていくというあたりも目にしている訳なんです。昔は、山沿いにしか市街地はなくって、広い平野はほとんどが田んぼだったという風に仰っていました。教訓が忘れられる、昔の記憶が風化するにつれて、どんどんと海の方へと市街地が迫っていた。そこに津波が今回やって来たという訳です。避難についても色々なことが、陸前高田では議論されました。例えば、陸前高田市の市立気仙中学というところ。ここは、校長先生の機転で、市のマニュアル通りではなく、生徒をいち早く避難させた。気仙中学は大きな川の横に中学校が立っていて、そのグラウンドに生徒を集合させていたら危ないんじゃないかと、校長先生が考え、そして自分で判断をして、山の方へ生徒たちを逃がしたと。その結果、生徒に犠牲者は一人も出なかったということがありました。一方で犠牲者を多く出した学校も様々あったわけです。こうした教訓を活かすため、学校からの生徒の避難についても議論があったようです。お聴きください。

實吉
陸前高田市では、小学校・中学校で亡くなった子供は19名なんですよ。で、どういう子供たちが犠牲になったかというと、3名は当日体調が悪くて、休んで自宅にいて犠牲になった子なんですね。残り16名の子供は全て、親が迎えに来て連れ帰った子なんです。しかもね、親子で全員犠牲になった。車で迎えに来るじゃないですか。そして交通渋滞に巻き込まれて、親子で犠牲になった。

生徒が学校にいるときに、警報・注意報が出たら、父兄が迎えに来るべきか否かっていう課題です。これ真剣に、教育界の中で議論されてきているんですよ。PTAだとか、先生方とか、教育委員会で。岩手県はこの間、先月ですかね。学校開設時に警報・注意報が出た場合には、親が迎えに行かないってことになったんですよね。沿岸部でもみんな犠牲になってるじゃないですか。しかも親子なんですよ、ほとんど。一緒に。

ということは、さっき言った、『津波てんでんこ』なんだよ。親は親で自分の命を守れと。その代わり、学校はね、躊躇せず、何でも良いから高いところにすぐ避難させろ。高台にある学校は、体育館の中に避難所をちゃんと確保しろとか、そういうことが決まったんです。各地区でも色んな災害がある訳ですけど、大事な子供たちの命ってことを考えた場合には、感情的には確かに子供可愛いですよ、何とかしなくちゃと誰もが思うんだけれども、結果とすればそういう結果だったってことを考えれば、実は市内でも親が来るはずだからってことで、ギリギリまで避難を待った学校がたくさんあるんですよ。

だから、もうダメだぞっていうときに、先生方も子供たちも全速力で走んなきゃいけなかったんです。警報出てすぐ避難してれば、落ち着いてゆっくりと避難できたはずなんですね。だから、親が来ないってことが決まっていれば、すぐ逃げられるわけですよね。そのことは今回、教訓として得られたことなのかなと思いますけれどもね。

これについては、様々なご意見もあると思いますけれども、僕も2歳の子供がいるんで考えると、共働きで、子供預けていると心配でたまらないということになるなぁと思うんです。これについては、本当に様々な議論がありながら、岩手県として結論を出したということであります。それでは、實吉さんに今後の陸前高田の課題・展望について伺って参りました。

實吉
津波がなかったら考えられなかったような、本当の意味での想定外の事態ってたくさん出てきているんですね。例えば、町内会の解散。高台造成で移り住むと、地域コミュニティの分解という言葉が使われてます。それまで住んでた町内会の人で戻る人はどれくらいいるのか、とか。少子高齢化の中で、地域の伝統芸能とか伝統文化をどうやって継承するかとかそういう課題も一つ、大きくなってきている。被災した中学校、小学校に伴って、学校統合の話が出て、(陸前高田市は)8つの町で構成されている訳ですが、中学校のない町も多くなっているんですね。6つの町に中学校なくなるんですよ。そうするとそういった伝統芸能を繋ぐとかね、なかなか難しくなってくる。

飯田
今までは学区ごとに例えば、おみこしだったり、伝統芸能をしていたのですね。

實吉
小学校・中学校とか学区ごとに伝統芸能があったじゃないですか。それがもう学校ごとでは出来なくなってくる。小学校そのものが子供の数が少ないじゃないですか。僕が住んでるところなんか、陸前高田市で一番小さな町ですが、1年生から6年生までで65人ですよ。そうなるとね、部活そのものが出来ないんですよ。今後、逆転して増えるって可能性ない訳ですよ。子供たちが一気に増えるとかね。

飯田
元々、過疎化だったり、少子化だったりっていうのはあったんだけれども、これ震災によって進んでいるのでしょうか。

實吉
さらに拍車がかかるみたいな形になってますね。それと結局ですね、家族が犠牲にならなかったけれども、仕事場を失った人がいるわけでね。そうするとね、家族を抱えている人は、仕事のためにね、東京、仙台(に行く。)現実面からいって、例えば、仕事場なくして、そっちにいる人がね、「(陸前高田に)高台が出来ました!さぁ、どうぞ!」って言われてもね、こっちに仕事場がなかったら帰ってこれないですよね。だから、そのへんのところが、一番大きな課題です。

それから、立派な公営住宅、マンションが建ったりしているんですが、結局ですね、阪神淡路大震災の時の話で私も「えー!?」って思って聞いたんですが、今それ現実になりつつあるんですね。結局、孤独死だとか、自殺っていう問題が新しいマンション形式の公営住宅が出来たことによって、震災前には考えられなかったようなことが多く発生しているっていうのが現実ですね。学校の校庭は、ほとんど、仮設住宅があるんですね。学校の校庭って広いじゃないですか。数を稼ぐには学校の校庭。100戸、150戸建っているわけですよ。

飯田
公有地ですもんね。

實吉
公有地ですから。ところが結局、無くならないですね。棟割長屋じゃないですか。こういう仮設住宅は。1棟の仮設の中に5戸くらいお部屋があるんですね。そうすると3部屋の人が引っ越しても、2人が残っているから、解体することが出来ないっていうことになっちゃって、結果として残る。ただこれやっぱり、どっかで強制的にでも集約して貰わないと、だって、津波のときに小学校に入った子供、この春、卒業ですよ。

飯田
そうか、6年経つんですもんね。

實吉
6年経つんですもん。6年間ね、自分たちの思い出の校庭がなくて卒業していくんですよ。まもなく。大変だから、大変だからってね、甘えてるだけじゃやっぱり駄目だと思いますよ。

飯田
一方で、その復興公営住宅は、実は空きがあったりするって報道もされてますよね?

實吉
まぁ、色んな事情があると思いますね。一番大きな理由はですね、自分があそこの近くに住みたいとかってやっぱりある訳ですよ。それから前住んでた近くに住みたいとか、そうすると、公営住宅が建った場所が限定されるわけじゃないですか。ちなみ前は、陸前高田市の公営住宅っていうのは全部1戸建てだったですよ。市営住宅なんかもね。今度、平場の広いところが津波のために使えなくなって、人が住めなくなったために、数を稼ぐためには高いマンションですよね。そうすると結果として、前住んでた地域に近いところには中々、公営住宅がないみたいなね。あるいは、あそこに今度建つそうだとか、色んな話があって、もうちょっと待つかみたいな人もいるわけですね。

それから、当初、アンケート取ったときに、公営住宅に入るって答えた人も長い時間の経過の中で、だったらもうちょっと頑張って、親戚の家から土地を安く譲ってもらえるから、家建てようとか。それと地方にいる人たちで、80代、90代の人っていうのは、若いときに、アパート暮らしだとか、マンション生活ってしたことない人が多いじゃないですか。なかなか馴染まないんですね。引っ越しても、今度、孤独死だとか、自殺とか現実にあったわけで、そういった課題もまた引きずる訳ですよ。経済的な理由だとか。

飯田
仮設に比べれば、もちろん収入によって差はありますけど、多少負担は増えるわけですね?

實吉
やっぱり負担は増えるんですよ。今までの同じ条件の市営住宅に住んでいるよりは、聞くところによると、1000円なり、1500円なり高くなるんですね。それで、もう一つ、課題があって、全部マンションですから、共益費が出るんですね。だから、エレベーター管理料だとか、廊下の電灯代だとか。

飯田
これ、1戸建てだったらない出費ですね。

實吉
ないんですよ。それで、ほら、車を持っている人は駐車場とかね。そうすると、収入が不安定な方とか、ほとんど少なくなっている方はなるべくお金を使いたくない。仮設が許される限りは、そこに居たいとかね。そういうこともやっぱり出てくるんですね。

インタビューを放送後、スタジオの桜林美佐コメンテーターと飯田アナウンサーによるコメントが放送されました。

飯田
陸前高田市を含む、被害の多かった5つの市や町は、仮設の許容期間が一律、7年目まで延長になったということです。桜林さん、お聴きになっていて、如何でしたか?

桜林
私も実は、ニッポン放送のドキュメンタリー(「子どもたちの震災~しゃべっていいんだ」)の構成にも関わらせてもらったんですけれども、高校生が自分の体験を今まで黙っていたんだけれども、話すようになった。話すことで、かなりトラウマといいますか、そういうものをクリアしていく、乗り越えていくっていうことがありましたから、多くの方が自分が抱えている悩みでありますとか、そういうことを話すことがやっぱり、次のステップに進む道なのかなって気はしましたよね。

飯田
この實吉さんも犠牲者名簿に知っている名前が300人以上いたことをかなり無念そうに語っていらっしゃって、やっぱり教訓というものが活かせなかった、だから「今度こそは!」というところがあるようであります。2011年というのは、1960年、昭和35年に『チリ地震津波』があってから、51年が経っていた。『チリ地震津波』は経験していた實吉さんですが、『明治三陸地震津波』『昭和三陸地震津波』という辺りは、周りに経験者、おそらくいただろうと思うんですが、聞いたことがなかったそうなんですね。具体的な、逃げる話だとかっていうのはね。ですから、今度こそは、キチンと語り継ぎたいと。自分が肉声で喋れる内は喋るし、これを経験した若い子たち、それこそ、桜林さんが構成した番組に出演していたような、高校生たちが関わってくれたら、語り継いでいけるだろうと、というようなお話もされていました。

桜林
口を閉ざしてしまう傾向が結構あって、話してはいけないっていうね、何か雰囲気があるようなので、やっぱりどんどん喋った方がいいですよね。

飯田
そのドキュメンタリーの中でも精神科の先生などは、喋ることの効用として気持ちが整理されてというようなことも仰っていましたけれども、今日、僕も實吉さんに聴いて感じたのは、それに加えて、喋ってくれることで、記憶の継承が、例えば、100年後、200年後の命を救うかもしれないと。これだけ機器が発達していても、肉声が一番残るんじゃないか、というような気も致しました。

桜林
紙で残しても中々伝わらないところがありますよね。

飯田
そうなんですよね。それこそ、『チリ地震津波』、紙にはいっぱい残っていて、みんな立派な本棚の中に整理されていると。ところがこれが活きなかったっていう。そこが實吉さん、本当に無念だという風に何度も繰り返されていました。

今日は、陸前高田市の語り部ガイド・實吉義正(みよし・よしまさ)さんにお話を伺いました。

放送の模様はradikoタイムフリーでお聴きいただけます。

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