2017年03月14日

海と生きる

 5日間にわたる東北太平洋岸縦断取材の最終日3月10日、私は岩手県宮古市を取材しました。宮古市は岩手県の中部沿岸、西隣が盛岡市という立地です。東日本大震災の際は、最大震度5強、死者行方不明者合わせて568人が犠牲になり、4098棟が倒壊しました。

 宮古市にある宮古港はおよそ400年前に開かれた歴史ある港。外海から遮へいされた天然の良港として知られ、沖合に豊かな漁場を持つ漁業基地として古くから栄えてきました。江戸時代からアワビなどの海産物を干した三陸俵物と呼ばれる名産品を大阪や長崎へと送り出していました。それゆえ、古くから船乗りを養成する学校が複数あり、明治28年には県立宮古水産高校が開かれ、その後昭和15年には国立の海員養成所が開校。海員養成所は現在、国立宮古海上技術短期大学校(海技短大)となっています。

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宮古市にある国立宮古海上技術短期大学校

 それだけ海と深い関わりのある町であっただけに、船乗りの間にも津波の時の対処法が綿々と受け継がれてきたようです。この宮古市の景勝地、浄土が浜周辺を巡るの観光船『みやこ浄土ヶ浜遊覧船』の船長、坂本繁行さんは、
「この辺じゃ、津波が来たら船を沖に出せってのが昔からの言い伝えだった」
と話します。実際、2011年3月11日の東日本大震災に際しては、即座に船を沖に出し、津波の到達時には沖合い6キロほどの地点にいたということです。
「あの時は、団体さんを乗せてのクルーズがその日の最終で、お客さんを下ろして船内を片付け、ちょうど船を降りて歩いていたところで揺れに遭ったんだ。スタッフが事務所から飛び出してきて、船長!地震です!それも、大きい!と言ったんで、即座に船をだすぞと。7分後には船を港から出すことができた」
と、坂本さん。陸上から見ていたスタッフによれば、直後から潮が引き始め、みるみる間に港の底が見えたといいます。
 津波も含め、波というものは水深が浅いところに来て初めて立ち上がってくるもので、水深が深いところでは船ごと持ち上げられ、また下がりを繰り返したそうで、ひっくり返りそうになりながら乗り越えていくという感じではなかったそうです。それよりも、難渋したのは港の様子がわからず、帰港できなかったこと。結局、丸2日近く海の上で過ごしたそう。坂本船長ら3人は、初めは船内にあったカップラーメンで、後に海猫の餌付け用にストックしてあった『うみねこパン』を食べながら陸上からの連絡を待ったそうです。
 今回の東北取材で陸前高田や大槌の語り部の方々が、過去の津波の教訓が上手く語り継がれずに来てしまったことを悔いていましたが、船乗りたちはこうして言い伝えを語り継ぎ、いざというときに対応していました。沖に出ると、何艘もの船に遭遇したそうです。

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あの日、船長の機転で沖へ避難した第16陸中丸。

 しかし、これだけの被害を母港にもたらした海の脅威。震災の前と後で海に対する考え方が変わったのか、海が怖くなったのではないかと思い聞いたところ、
「そんなことはない」
と、きっぱりと否定されました。むしろ、海は魚や貝など恵みをたくさんくれる。その上、
「震災後、遊覧船から見ていると、自然の観光名所はどこも変わっていない。壊れたのは、人間が作ったものだけなんだよね。」
と語ってくれました。食べ物としても、観光資源としても、海は豊かな恵みをもたらしてくれる。海とは共存していくしかない。昔からそうだったし、今もそう。そしてこれからも。坂本船長のインタビューでそんなことを感じました。

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乗組員が空腹を凌いだうみねこパン。海藻が練りこんであり、ほのかに塩味を感じる。

 さて、先ほども書いた通り、宮古には船乗りを養成する学校が複数あります。その中で、今回は海技短大の取材をすることができました。この学校は、2年で船員としての基礎を叩き込むのみならず、航海と機関双方の免許を取得することができるという学校。それゆえ、企業側からの引き合いも強いそうです。宮古海技短大の森真校長に聞くと、
「就職率は毎年ほぼ100%。だいたい卒業生の2倍の募集が来ていて、このところは完全に売り手市場」
と話します。
 以前、日本丸を取材したときにも書きましたが、今や内航船と言われる国内航路の船員はかなりの人手不足。かつてのように外航船から流れてくる人材や、海自を退職した人の受け皿という人材供給も途絶え、新卒を入れなくては船があっても動かせないということになりかねない危機感があるそうです。これだけ就職が良ければ、地元を中心に将来を堅実に考える高校生の選択肢として海技短大の存在感は大きくなります。
 森校長は、
「たしかに東北6県だけで全体の半数以上を占めます。それに、意外かもしれませんが船乗りというのは実は住むところを問わないんです。だいたい3ヶ月航海をして、その後1ヶ月休みというローテーションなんで、休みの間はどこに住んでいても問題ない。したがって、例えば長崎・佐世保の船会社に就職しても、住居は東北のままという人もいます。出航の時に佐世保や他の港まで行って乗って、そこから3ヶ月は船の上。その後1ヶ月は東北の実家に戻って休むというスケジュールも可能だから、東北の子でも引っ越しなしで全国の会社を受けられるのです」
と、話してくれました。地元の就職難を救うという意味でも、貴重な存在なわけですね。

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宮古海技短大の森真校長と

 もちろん、就職の魅力で海技短大に入る人もいますが、それだけではありません。今回の取材では、東日本大震災で被災した学生に話を聞くことができました。彼らは、地震、そして人によっては津波を間近で経験しながらも、それでもなお船乗りを目指す道を選んだわけです。
 まずは、卒業式を間近に控えた2年生の髙木飛雄馬さん。福島県いわき市の出身で、中学2年生の時に東日本大震災が起こりました。そこで、生活が一変します。
「震災と、その後の原発事故で、所属していた浪江の野球チームが解散に追い込まれてしまいました。お世話になっていたコーチは消防団の仕事で誘導中、津波に呑まれ、今も行方不明のままです。生活のほとんどを野球に捧げてきたので、それはショックでした」
そして彼は、兄を頼って茨城県に避難。そのまま、茨城で野球に打ち込む道を選びます。しかし、転校先では同級生から容赦ない言葉が。
「正直、ヒバク呼ばわりされたりもしました」
それでも、中学の先生や周りの理解もあり、徐々に溶け込んでいった茨城での生活。無事、高校に進学し、甲子園を目指しましたが、夏の県予選ではベスト8で涙を呑みました。その後、進路を決めあぐねていた時にヒントをくれたのが、やはりお兄さん。歳が10離れた兄は、茨城県の海洋調査船の乗組員。その兄が、船乗りを目指さないかと背中を押したそうです。当然、津波の被害も目の当たりにしているわけで、最初は怖いなという思いもあったそうですが、
「今は船を海に出すと気持ちがいい。怖いという気持ちはないです」
と語ってくれました。

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お話を伺った、髙木飛雄馬さん(右)、廣﨑恭一さん(中)。

 もう一人は、1年生の廣﨑恭一さん。こちらは、4年制の大学を卒業したあとこの海技短大に入学しました。岩手県の久慈市出身。東日本大震災の時は大学一年生で、春休みで帰省している最中被災しました。まずはそのときの様子から。
「自分の家は堤防のすぐ脇にあって、地震が来てすぐに高台に避難しました。すると、津波が街にみるみる近づき、あっという間に堤防を越えて実家も飲み込まれました。家って、しっかりと固定してあるイメージだったんですが、意外と浮くんですね。自分の家が浮かび上がって、水の上をプカプカ浮いている様が頭に残っています」
幸い、ご家族も避難され無事だったそうですが、目の前で津波の脅威をまざまざと見せつけられたわけです。それで船乗りを目指そうと言うのは周りが止めそうなものですが、
「いや、反対はありませんでした。祖父が漁師をしていて、父も船乗り。むしろ、父は少し嬉しそうな表情をしていました。」
「海って津波とか奪うだけじゃないんですよ。むしろ、貰っているものの方が多かったので、差し引きしたら全然プラスで有難いなって思って。」
と、話してくれました。

 奇しくも、先ほどの遊覧船の坂本船長と、この船員を目指す若者は同じことを言っていたんですね。東北太平洋沿岸は、遥か昔から海と共存し、その恩恵に浴してきました。今も、被災地の経済復興の柱を挙げればやはり海産物、そして観光。ともに、目の前に広がる豊かな海があってこそというわけです。海と共存共栄してきたこの地域、その最前線にいる船乗りたちは、ベテランも若手も等しくその恩恵を実感していました。そして、その海が牙を剥いた時の対処法もまた、ベテランから若手へと伝えられていくのでしょう。

 海の上では津波が来たらどうすればいいのかがきちんと語り継がれてきました。今度は陸上でも、津波が来たらどうすればいいのか、語り継いでいかなくてはいけません。
プロフィール

飯田浩司

出演番組:
ザ・ボイス そこまで言うか
月~木 16:00~
辛坊治郎ズーム そこまで言うか
土 13:00~

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