高田文夫のおもひでコロコロ

2023.07.10

第66回『七夕永六輔と勘三郎』

初夏の会食、無駄話シリーズ。
談春に続いて7月6日は怪進撃を続ける講釈師・神田伯山と。近所に住む近所の食事処で近所の野末陳平(91)氏と。いつも居る立川志ららは私の付き人であり陳平氏の介護人であり立川志らくの弟子であり立川談志の孫弟子である。晩年の談志は ここからすぐ近くのMXテレビで陳平氏とトークのレギュラー番組をやっていた。写真は お店の人に撮ってもらったが少し暗めだった。ニュアンスだけでも。

右から伯山、帽子は陳平、私、そして志らら。私は「明日 七夕は永六輔の命日だよ」と言うと伯山「永さんも談志師匠も高田センセの周り みんな死んじゃったんでしょ?」「伯山は友達が1人も居ないから そんなに辛いとは思わないだろうけど オレみたいに友達とか好きな仲間が いっぱい居て次々死なれちゃうと結構辛いもんだよ」「右朝師(享年52)も景山民夫(享年50)さんも…話し相手がいないのは寂しいですか。私なんかズーと1人だから まったく平気ですけどネ」中村屋さん(勘三郎)も居ないし森田芳光監督も もう居ないし大瀧詠一さんも居ないし 江戸っ子「浅草文扇堂」の荒井修ちゃんも居ない。扇子屋のご主人だが大学時代同級で 以来気の合う江戸の友達。

家へ帰って近くにある書斎へ行って本を探していた。ボンヤリ「勘三郎に会いたいなあ」と思いながら資料を探していたら パラッと本と本のあいだから写真が・・・。ン?と見ると とんでもなく いい写真が。それも白黒という格好良さ。思えば通じるということだろう。大好きな人達に囲まれるのは嬉しいものだ。

右は御存知 松村邦洋。左は寄席文字の大家・橘右之吉。中央のふたりが左・舞台の大看板 中村勘三郎。放送の大看板 私である。何故こんな写真が撮れたのか少し考えたら分った。このあとに2枚の証拠写真が出て来た。談春の「赤めだか」の頃だから08年頃。勘三郎が「赤めだか」を読んで感激し「一度談春に会わせてよ」と頼まれて 少し経った頃「歌舞伎座」夜の部 終ったあとに会えそうだと連絡。「それならば」と私も算段。何故か谷中の もんじゃ焼き屋に集合。

左から私、「文扇堂」荒井、東MAX、松村。後 山田雅人、はなわ、一番右の人は固まってしまった当店主人。夜中に連絡があり「今 銀座に集まってる」と。「それっ行け」頭から全員にファブリーズ。銀座行くのに もんじゃくさくては高田文夫の名がすたる。一同勇んで銀座の高級クラブへ。合流。二軒、三軒。下は談春 初めて勘三郎に会うの図。

後列左よりラサール石井、私、勘三郎、右之吉、松村、山田、東MAX。前列左より文扇堂荒井、談春、はなわ。二度と見られぬ大衆芸能の祭典である。朝5時も まわった頃 勘三郎が「高田さんはビバリーあるだろ。一回帰って一寸寝た方がいい」と走って行ってタクシーをひろってくれた。江戸っ子は何でも面倒見がいい。私は帰って寝たのだが あとからきくと それから もう一軒全員ひきつれて歌っていたそうだ。勘三郎その足で歌舞伎座へ行って<昼の部>11時には舞台に立っていた。私の11時30分本番より全然早い。タフだ。仕事も友達づきあいも一所懸命やるから早死しちゃうのである。中村屋さんに会いたいなぁ。

<PS>談春 伯山とつづいた会食シリーズ。来週は一之輔である。筋のいい奴としか会わない。

 

2023年7月10日

高田文夫  

 

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筆者
  • 高田 文夫
    高田 文夫
    高田 文夫

    高田 文夫

    1948年渋谷区生まれ、世田谷育ち。日本大学芸術学部放送学科在学中は落語研究会に所属。卒業と同時に放送作家の道を歩む。「ビートたけしのオールナイトニッポン」「オレたちひょうきん族」「気分はパラダイス」など数々のヒット番組を生む。その一方で昭和58年に立川談志の立川流に入門、立川藤志楼を名乗り、'88年に真打昇進をはたす。1989年からスタートした「高田文夫のラジオビバリー昼ズ」は4半世紀以上経つも全くもって衰えを知らず。